ホームメッセージ物語の水脈 ――「教養」の来た道(229) 天野雅郎

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物語の水脈 ――「教養」の来た道(229) 天野雅郎

小学生の頃、物語を書きたい(!)と望んでいた時期がある。それどころか、それは中学生になっても高校生になっても大学生になっても、ひょっとすると今でも、延々と続いている、言ってみれば僕の、夢のような話であり、この夢(ゆめ→いめ=寝目)は僕が眠っている間か、さもなければ、僕が文字どおりに眠たそうな目をして、ぼんやり遠くを眺(ながめ=長目)たりしている......要は、人(ひと=他)前では決して見せない、見せようのない、自分だけの目をしている時にのみ、僕の中に見えている光景や、そこに点滅している影像であって、これを「将来、実現させたいと思っている事柄。将来の希望。思いえがく将来の設計」(『日本国語大辞典』2006年、小学館)という意味で、昨今の日本人が頻(しき)りに、やたらと好んで用いている「夢」とは、違う夢の話なのであった。

せいぜい、それは『日本国語大辞典』が続けて、この後に「現実ばなれした願望」と添えている、そのような「願望」か、あるいは「覚醒中に視覚的な性質を帯びて現われる空想や想像で、それに引き入れられて放心状態になるようなものをいう。また、非現実的な空想。白昼夢」と、これまた同辞典の語釈が説いている「空想」とか「想像」とか、その程度の「ぼんやりとして不確かなさま、はかないさま、頼みとならないさまなどをいう」場合の、夢の話に過ぎない訳である。ちなみに、このような夢を古来、仏教では「夢幻泡影」(むげんほうよう)と称し、そこに夢と幻(まぼろし)と泡(あわ)と影(かげ)を連ねて、そこから「人生の〔、〕はかないことに〔、〕たとえていう」ことが通例になっていた次第。――例えば、次に掲げる『古今和歌集』(巻第十六)の哀傷歌のように。

 

 寝ても見ゆ 寝でも見えけり 大方(おほかた)は 空蝉(うつせみ)の世ぞ 夢にはありける(紀友則)

 夢とこそ 言ふべかりけれ 世の中に 現(うつつ)あるものと 思ひけるかな(紀貫之)

 寝るが内(うち)に 見るをのみやは 夢と言はむ はかなき世をも 現とは見ず(壬生忠岑)

 

と、このような形で並べられている、この『古今和歌集』の撰者たちの歌の中から、最初の一首を『日本国語大辞典』は用例に引いているけれども、むしろ僕自身が興味を惹かれるのは、このような一連の「和歌」の中で生まれ、育まれてきた「夢」と「現」の感覚(sense→感受、感情、感応、感心、感激、感嘆、感動、感銘、感謝、感涙......)は、おそらく古代から中世へと、そして近世へと伝えられ、その上に、さらに近代や現代の「日本文学」の水脈も、脈々として引き継がれ、流れ続けているのではないか知らん、という点である。また、それは「日本文学」が現在のように、もっぱらヨーロッパやアメリカや、いわゆる西洋(West→Occident=日没)の文学的風土と、その文学的伝統の輸入の上に芽を吹いた、いわゆる「近代文学」の流れとは、必ずしも一致しない、という点である。

言い換えれば、君や僕が通常、一般に「日本文学」の歴史や、とりわけ「近代文学」の成り立ちを学び、習う際、そこに主流(mainstream=本川)として流れているのは、もっぱら「小説」であり、また――それと手を携えながら、今に至っている「評論」であるけれども、このような「小説」と「評論」は言うまでもなく、その起源を「西洋文学」に有しており、その折の「小説」と「評論」という語自体が、それぞれノヴェル(novel)とクリティシズム(criticism)の翻訳語であった訳である。翻れば、それまで「物語」や「説話」という名で、あるいは「草子」(=草紙)や「読本」(よみほん)という名で呼び慣わされていた、あらゆる散文体(prose=率直体)を一括し、これを「小説」と対置することで、どうにか「日本文学」は体面上、名目上の「近代文学」になりえたのであった。

この点は、散文体に対する韻文体(verse=曲折体)についても、等しく当て嵌まる。と言うよりも、ひょっとすると韻文体(すなわち、詩)の方が実にアケスケに、この傾向を露(あらわ=顕)にしていたのではなかろうか。なぜなら、そもそも「詩」とは日本人にとって、長い間、漢詩のことであり、漢詩以外の何物でもなく、これが後に「からうた」(=唐歌)と訓読され、やがて「和歌」(→やまとうた)と並ぶ形で、日本語の韻文体の代表となり、双璧となって以来、脈々と引き継がれてきた伝統が、この「詩」(poem→新体詩、象徴詩、自由詩、近代詩、現代詩etc.)という語自体によって、跡形もなく破壊され、その廃墟に花を咲かせたのは、わずかな天才詩人の労作と、それ以外は、かろうじて日本語と呼ぶことの出来る、幼稚な自我露出や、安直な感情吐露であったからである。

さて、このようにして振り返ると、僕が前回も前々回も、くりかえし君に話を聴いて貰(もら)っている、あの有吉佐和子(ありよし・さわこ)を取り巻く「文壇」の事情も、かなり見通しの効(き)くものとなったのではあるまいか。とは言っても、相変わらず君が西洋の、ヨーロッパやアメリカの文学(literature)を「文学」として祭り上げ、それ以外の文学は「文学」ではない、と信じ込んでいるのであれば......お気の毒、君は確かに束の間、平時忠(たいら・の・ときただ)のごとき「おごれる人」となりうるのかも知れないが、その行き着く先には、いつも「久しからず」が待ち構えている点、お忘れなく。――「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(ことはり)をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」(『平家物語』)

ウ~ン、何と言う名文であろう。そして、このような名文を読まず、顧(かえり=省)みず、置き去りにして、君や僕は一体、どのような日本語で「小説」を書き、また「評論」を書き、あるいは「詩」を書くのであろう。僕自身は、はなはだ時代錯誤(アナクロニズム)の感は拭い難いけれども、このような和漢混淆(=混交)文と呼ばれる文体(style=尖筆)の中に、君や僕が今でも、机に向かい、姿勢を整え、尖った筆を持ち、その筆の先でカリカリと、細かく紙を削っていく行為は根差さざるをえず、根差すべきである、と考えていて、それを抜きにすれば、いくら君や僕が「近代文学」に似合う、それに相応しい「小説」や「評論」や「詩」を書いても、それは「ひとへに風の前の塵に同じ」ものではなかろうか......と感じている、いかにも古風な、アナクロニスト(?)なのであった。

ところで、今回の一連の、この大風呂敷を広げるに際して、僕は前々回の「有吉佐和子論」(拾遺)に続いて、ふたたび磯田光一(いそだ・こういち)の『鹿鳴館の系譜』(1983年、講談社)の中から、その第一章(訳語「文学」の誕生――西と東の交点)を参照し、それと並んで、もう今から65年ばかりも前(昭和二十八年→1953年)に書かれた、小西甚一(こにし・じんいち)の『日本文学史』を、その復刊本(講談社学術文庫)で読み直している所であるが、この「幻の名著」が平成五年(1993年)に再度、出版されてから、すでに四半世紀に近い時間は経っている。その間、この『日本文学史』は日本語で、あえて「小説」や「評論」や「詩」を書こうとする人たちに、どこまで深く、読み熟(こな)され、読み継がれてきたのであろう。そのことを思うと、僕は遺憾ながら、不安である。

 

現代人は、とかく物語を小説と同様に考えがちであるけれども、物語と小説とは、けっして同じではない。〔中略〕いわゆる「物語」は、むしろ、小説と違った点に、物語としての特質をもつのである。〔中略〕それは、小説が人生の「切断面」を描くものであるのに対し、物語は人生の「全体」を述べるものだという点である。つまり、小説は、長篇小説にもせよ短篇小説にもせよ、作者の描こうとする中心があり、それを適切に描き出すため、いろいろな周辺的事実を配置してゆくのだが、物語は、むしろ、周辺的な事実を〔、〕こまごま書いてゆくことが本体なのである。構想の緊密な統一を要するはずの短篇物語においてさえ、主題が〔、〕どこに在るのか〔、〕わからぬような散漫さが、常に平然として存在する。小説ならば、失敗として非難されるであろう無統一性が、物語においては、かえって本来の性格となる。小説をよむときの批判規準は、物語に適用できないのである。

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