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日本的であること ――「教養」の来た道(233) 天野雅郎

日本的であること、という表題を思い付き、ふと気になったので調べてみると、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)には「日本独特の面を〔、〕もっているさま。日本らしいさま」という語釈に続いて、その用例に挙げられているのは岡倉天心(おかくら・てんしん)の『日本美術史』であり、やっぱり、と僕は先刻、膝を打った所である。なぜなら、ごく当たり前のことではあるが、君や僕が現在、日本と称している国(すなわち、日本国)が誕生するのは今から71年前の、昭和二十一年(1946年)のことであり、それに先立つ「大日本帝国」にしても、それは明治二十二年(1889年)以前には遡りえず、その上限は君や僕が、いわゆる「日本史」の教科書で「大政奉還」や「王政復古の大号令」という形で習う、あの慶應三年(1867年)あたりに置かざるをえなかったからである。

と言うことは、さしずめ君や僕が「日本」という名を冠して呼んでいる、日本国であっても日本人であっても、はたまた日本語であっても、そこに安易に「日本」というレッテル(letter=文字→オランダ語!)を貼り、これを日本的にし、日本化をしない方が得策であり、それは君や僕の頭や、心や体の使い方として、有効であることも分かってくる。その意味において、このような「日本」の歴史を君や僕が、しっかり自分の生活や人生と結び付け――それが未完成の、下絵や素描に留まるものであっても、うまく理解し、納得することの叶う見取り図(sketch=写生→オランダ語!)は存在していないのか知らん、と僕自身は君のような大学生の時分から、ひょっとすると高校生や中学生の折にも、ずっと思い続けていたような気がしてくるのであるけれども、さて君は、いかがであろう。

ちなみに、僕が先刻、膝を打った所である......と述べておいた、岡倉天心の『日本美術史』は、彼が明治二十三年(1890年)に東京美術学校(現:東京藝術大学美術学部)の初代校長となり、そこで教員としても、みずから講義を行なっていた際の記録である。――と、この辺りが昨今、やたら改革、改革と声高に叫びながら、いっこうに改革の進む気配のない、どこかの国の大学とは決定的に違う点であって、それは突き詰めて言えば、君や僕の生きている21世紀の「日本」と、その一方で岡倉天心の生きていた、やがて19世紀が終わり、20世紀が始まろうとする頃の「日本」(=大日本帝国)との間にある、深い亀裂なのではなかろうか。まあ、大学の教員が学長や理事を始めとする、いわゆる管理職に就いて、そこで必然的に、やむなく教育者でなくなるのは、分からない話でもないが。

でも、そもそも管理職が英語で、例えばadministratorと称される点からも窺えるように、この語は元来、行政上や法律上の管理職である前に、その起源を遡れば宗教上の、信仰上の管理職であったはずであり、そこでは実際に、キリスト教の細々(こまごま)とした儀式を執り行ない、取り仕切ることが役目であり、任務であらざるをえなかったに違いない。同様に、おそらく大学(universitas→university)という場所に何らかの、管理職が必要であるとすれば、それは単なるマネージャー(manager)であっては困るし、それでは恐ろしいことに、いつか大学には牛馬の訓練をし、機械の操縦をする......この語の原義どおりの調教師や、ひいては戦闘員(シェイクスピア『恋の骨折り損』)や、さらには工場長のような立場が管理職と見なされる時代が到来しないとも限らないから、ご用心。

ともあれ、岡倉天心の場合は幸いにも、彼自身が教壇に立ち、みずから「日本美術史」を始めとする講義(lecture)を行ない、その結果、彼の語り、本を読む声(lectura)は受講生たちのノートに留められ、その書き写し(transcribe)を介して、それが後年、やがて活字(type=印象)に姿を変え、講義録(transcription)となって編集され、出版されることも可能になった訳である。もちろん、それは特段、岡倉天心に限った話ではないし、この当時の大学や、いわゆる高等教育機関においては一般的な、ごく日常的な授業風景でもあったのであり、それが端的に言えば、君や僕が「学校」や「教育」や、要は「学校教育」という語によってイメージし、指し示している、はなはだ基本的な、その礎(いしずえ=石据)となる行為でもあれば、習得技術の代表でもあったことは疑いがない。

裏を返せば、そのような授業風景や習得技術から、あまりにも君や僕は離れ、背(そむ=叛)き、遠くに来てしまったのではあるまいか。実際、仮に君や僕が誰かの声を聴き、その話に耳を傾け、それを丹念に、文字としてノートに書き写そうとすれば、君や僕は当然、寡黙であらざるをえないし、昨今、流行病(はやりやまい)のごとく伝染し、蔓延することになった、私語(=お喋り)や死語(=居眠り)は一番、避けなくてはならない行為(?)であったに違いない。――ところが、このような症状を惹き起こした原因や、その背景を遡ると、そこには意外にも、君や僕の読み書き力(literacy)を高め、伸ばし、そもそも君や僕が文字(letter)を学び、これを運用するために好都合なように、開発されたはずの道具や機械の姿が浮かび上がってこざるをえないから、おかしな話である。

おまけに、そのような道具類や機械類の数は、どんどん増え、その種類も益し、その性能も各段にアップしているにも拘らず、なぜか君や僕は逆に、その趨勢に逆(さか)らおうとするかのように、ますます文字を嫌い、厭(いと)い、君や僕の読み書き力は、例えば岡倉天心が「日本美術史」を講義していた頃と比べても、はるかに退歩し、劣化したものになっている気配が濃厚である。とは言っても、それは当時の、ある限られた「エリート」(elite=選良)との対比であって、むしろトータルに見れば、よほど現在の方が百年前よりも、その「リテラシー」は広範囲に及び、高水準になっている、という見方をすることも可能であるし、そのような見方が横行していることも確かであろう。が、そのような釈明で、はたして君や僕の言語運用能力の低さは、慰めの付くものなのであろうか。

と、ここまで話が来ると、僕は君に岡倉天心の言っている、前掲の「日本的」であることについて、その具体相を論じざるをえないが、それに先立って、まず前回の『和漢朗詠集』を再度、引き合いに出すと、そこに含まれていたのは表題どおりの、和歌と漢詩であり、しかも、その内の後者には中国の漢詩と、さらに日本の漢詩が含まれ、これらを合わせて、その頃の日本では当たり前のように、同じ漢詩として認識していた訳であり、そのこと自体が、今の君や僕の常識(common sense=共通感覚)では起こりえない事態であることを、あらかじめ理解しておく必要がある。なにしろ、それは現在、例えば君や僕が英語で詩(poem)を書いて、それを英語圏の、いわゆるネイティヴの詩と共に並べ、同列に置き、さらに驚くべきことに、そこに日本語の詩を並置するような感覚であったから。

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