ホームメッセージ火の文学、火の映画 ――「教養」の来た道(235) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

火の文学、火の映画 ――「教養」の来た道(235) 天野雅郎

昨日、ふと思い立って、中上健次(なかがみ・けんじ)の『火の文学』を読んだ。奥付を捲(めく)ると、この本は平成四年(1992年)に角川文庫に収録される以前、昭和六十年(1985年)の六月には、すでに単行本が同書店から刊行されていたようである。と言うことは、この作家が同年「六月十一日、ベルリン自由大学主催の芸術祭・第三回世界文化フェスティバル参加のためドイツへ」出掛け、そこで「急性肝炎(B型)のため十九日に急遽帰国。帰省し、和歌山県那智勝浦の日比記念病院で二ヵ月ほど通院治療」していた時期が、この単行本の出版と、ほぼ重なり合う頃のようである。――と、このような情報を今、僕は手許の『KAWADE夢ムック・文藝別冊』の「総特集・中上健次・没後10年」(2002年、河出書房新社)の中から、その「中上健次・略年譜」を通じて、拾い集めている。

ちなみに、この『火の文学』は大きく、前半の「ドキュメント」(火の文学)と、後半の「オリジナル・シナリオ」(火まつり)に分かれていて、前半の方は「一九八五年二月六日の、和歌山県新宮市での〔、〕お燈〔とう〕まつりに取材、まつりの前後に、現地で語り下ろしたものである」(角川書店編集部)と述べられている通りに、この作家が「火まつり」の前日(二月五日、火曜日)の昼から当日(二月六日、水曜日)の夜に及んで、新宮市内の幾つかの場所で「語り下ろした」記録が、まさしく「ドキュメント」となって遺されている。また、そこには後半の「オリジナル・シナリオ」の中に、そのまま「良太」の名で登場することになる、映画の『火まつり』の俳優(中本良太)も姿を覗かせ、この「ドキュメント」も部外者の目には、ほとんど「シナリオ」同然の様相を呈している。

と、このようにして突然、僕は「部外者」という語を使ってしまったのであるが、例えば英語で「部外者」と言うと、いわゆる「アウトサイダー」(outsider)のことを指し示しており、この語からも窺えるように、その対となるのは「インサイダー」(insider)である。が、例えば君や僕がテレビや新聞のニュースで、目にし、耳にする「インサイダー取引」と称されるような行為は、さらに「一般外部者が入手できない企業内部情報を知りうる立場にある者」によって生じ、具体的に言えば、それは「会社の取締役・役職員・会計士」や、その会社の「大株主など」にしか犯しえない悪事であり、それを政治の世界に置き換えるならば、今度は「(政界の)黒幕、影の実力者たち」(insiderom)という語まで産み出される訳である。(『ランダムハウス英和大辞典』第2版、1987年、小学館)

ともかく、ここで今、僕が用いている「インサイダー」という語は、さしあたり一定の社会や、その倒錯体(=会社)の内部に所属する人間のことであり、それを『ランダムハウス英和大辞典』のように「部内者」や、あるいは「体制人」という語によって置き換えることは可能であっても、その「インサイダー」の一人一人が、どの程度まで「内部の事情に通じている人、消息通」であるのかは、かなり違う話であるし、ましてや彼ら、彼女らが「特別の便宜を得ている人、特別優遇者」であるのかも、その特別な便宜や優遇の種類と、その程度の如何(いかん)で異なってくる。すなわち、そもそも「インサイダー」とは見方を一つ、変えるだけで、今度は彼ら、彼女らが所属する社会や、その内部の、逆に「アウトサイダー」となりうる存在であることが、見逃されてはならないのである。

ところで、このようにして「アウトサイダー」や、あるいは「インサイダー」という語を使いつつ、僕の頭の中には先刻来、この『火まつり』という映画の二年前の、昭和五十八年(1983年)に日本でも公開された、あのフランシス・フォード・コッポラ監督の『アウトサイダー』(The Outsiders)のことが、いろいろ断片的に想い起こされてはいるのであるが......困ったことに、人間の記憶という力は実に、いい加減なものであり、この『アウトサイダー』という映画のことも、それどころか、何と『火まつり』という映画自体のことも、僕の頭からは大半、抜け落ちてしまっているのが実情である。と言う訳で、僕は何とか、この『火まつり』という映画を再度、観直すことは出来ないのか知らん、と調べてみたのであるが、その桁違いの高値に驚き、ほぼ諦めの境地に達している所である。

と言う訳で――と繰り返すけれども、僕は昨日、我が家の本棚から中上健次の『火の文学』を探し出し、抜き取り、その「オリジナル・シナリオ」のページを捲ることになった次第。幸い、そこには巻末に、この作家自身の「ノート」が付せられていて、そこには冗談なのか......何なのか、以下のごとき中上健次の、僕を元気づける覚書まで、遺されているではないか。――「シナリオを読んで映画を観る、あるいは映画を観てシナリオを読む、という行為があれば、シナリオも映画も〔、〕それぞれ独立性を保てず相互浸透を起こすので、私が目ざすシナリオと映画の分離は泡に帰すが、しかしながら、このシナリオだけを読み、映画を観ない、というシナリオ・ライターにとっては願ってもない読者が存在することを信じて、このノートを記す。〔改行〕このシナリオは、まず映画論なのだ」。

でも、このような「願ってもない読者」の一人に、はたして僕が該当するのか......どうなのか、あやしい限りであるけれども、少なくとも僕自身は『火まつり』という映画の主役(達男)を演じた、北大路欣也(きたおおじ・きんや)の顔や、相手役(基視子)の太地喜和子(たいち・きわこ)と、この二人を取り巻く、あまりにも個性的な面々を、いろいろ想い起こすことは叶っても、それ以上に過激な、この映画のクライマックスの、一家惨殺の場面や、それに先立つ「お燈まつり」のシーンは不思議にも、ほぼ記憶から消えている。なぜなのか知らん、と自分でも逆に、その理由を知りたいほどであるが、僕自身が現時点で感じるのは、この映画の公開の折、きっと僕には「和歌山」が、まったく「部外者」の目線でしか見ることの出来ないものであったからに違いない、という点である。

いや、それを「和歌山」という名で呼ぶこと自体が、おそらく僕が「部外者」であることの、明々白々の証拠なのであり、これを「熊野」や「牟婁」(むろ)や「紀州」や、あるいは「新宮」という語で置き換えることを通じて、はじめて僕が『火まつり』という映画を観たり、その「オリジナル・シナリオ」を読んだり、はたまた「ドキュメント」の『火の文学』を見つめ直したりすることは、そのスタートを切るに違いない。とは言っても、いったい何時まで経ったら、何処まで待ったら、そのような僕の立脚点を探し出し、見つけ出すことは叶うのであろう。そのことを思うと、どうやら僕が「和歌山」に生まれず、育たず、そこに生来の足場を欠いていることも、まんざら僕には不利益な、マイナスの要素ばかりではなく、プラスの面を含み持つものであることも、分かってくるのである。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University