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哲学の困難 ――「教養」の来た道(238) 天野雅郎

毎年、それまで「哲学」という名を冠した、仰々しい授業を当然のように、疑いもなく繰り返していた僕が、ふと思い立って、その看板を下ろそうと決めたのは、今から四年前の、平成二十五年(2013年)のことである。――と言うことは、和歌山大学の教壇に立って以来、二十年以上に亘って続けてきた、この「哲学」という講義を僕は、みずから思い切って、閉講したことになるのであるが、振り返ってみれば、それは僕にとっては大学生の時分から数えて、ほぼ四十年に及ぶ「哲学」との付き合いに、とりあえず一段落を付ける、という事態をも指し示していた訳である。......と、このような昔話を始めても、いっこうに君には興味が湧かないのかも知れないし、むしろ興味を削(そ=殺)がれる話であるのかも知れないが、その分、今回は君の寛容の精神に、期待できるならば有り難い。

ちなみに、そもそも君が「哲学」という名を冠した授業を、これまで大学で、一度でも受けた試(ため)しがあるのか、ないのか、確認もしないままに、まるで藪(やぶ)から棒(ぼう)を突き出すかのごとく、僕は話を始めているけれども、かつては大学の教養科目において「哲学」と言えば、ほぼ大学生の全員が受講する、必修科目に等しい扱いを受けていたのである。実際、例えば僕が和歌山大学に着任する直前まで、この大学には「哲学」の講義を担当する、計3人の教員がいたのであって、さらに遡れば、その数は何と、総勢5人であった(!)という驚くべき、俄(にわ)かには信じ難い状況まで、僕は着任当時、先任の先生から「黄金時代」(golden age)の逸話として、聞かされたのでもあった。――そして、そこから時は流れて、金から銀へと、銀から銅へと、銅から鉄へと。

なお、その時分は「哲学」と並んで、ほとんどの大学には「宗教学」と「倫理学」と、それどころか「論理学」の授業まで、ごく当たり前に顔を揃えていたのであり、必然的に「哲学」の講義を担当する教員には、それ以外にも「宗教学」や「倫理学」や「論理学」や、このような「哲学」の周辺に位置する学問の、幾つかの授業を引き受けることが定められていたのである。事実、これらの講義の全部に、これまで僕は教員として、教壇に立った経歴を持ち合わせている。言い換えれば、それは「哲学」の講義を担当する教員が、いわゆる個別科学や特殊科学の総称である「科学」とは違う知識や技能を、若くして身に付ける必要がある、という事態を指し示していたし、それを実現しようとすれば、さしあたり「哲学」には「哲学」に固有の、勉強の仕方や態度が求められてもいた訳である。

とは言っても、そのような勉強の仕方や態度が、そのまま大学の授業を通じて身に付くはずはなく、それは主として授業以外の場で、それこそ生活や人生を賭して(......^^;)習得するべき何かであったに違いない。裏を返せば、もっぱら大学の講義に出席し、そこで耳にする「哲学」の話と言えば、それは呆れ返るほどにオーソドックスな、よくも悪くも伝統的で、正統派の「哲学」の歴史であった。したがって、例えば僕が大学生の折、どのような「哲学」の講義を受けていたのかを振り返ると、それは近代哲学であれば、あのデカルトの「コギト」(Cogito, ergo sum.→我思う、故に、我有り。)から始まって、ヨーロッパの合理論(rationalism)や経験論(empiricism)を通過し、カントやヘーゲルの観念論(idealism)へと至る、それは、それは常識的な、西洋哲学の歴史であった次第。

しかも、その際の講義たるや字義どおりの――おそらく君が、まったく今まで経験したこともないであろう、音読(lectura)という形の講義(lecture)であり、事細かに言えば、まず教員が講義用の原稿を教室に持参し、それを延々と、黙々と(?)読み続け、その内容を学生は、ひたすらノートに写し取る、というのが順序である。と言い出すと、そのような授業など受けたこともなく、受けたくもない君には、さぞかし拷問のような刑罰がイメージされるであろうし、それは実際、文字どおりの苦行にも等しい授業であったけれども......不思議なことに、このような授業に僕自身は、空(むな=虚)しさや徒労を感じたことは一度もなく、このような形で教室では、さながら速記術の練習に精を出し、それを今度は下宿に帰って、せっせと清書して、次回の授業に備えるのが日常であった。

そのこと自体、先刻も形容したように「不思議」(mysterious=神秘的)としか、僕は言い表し様がないのであるが、それでも結果的に、このような授業を通じて僕は、ようやく「哲学」と呼ばれる学問の全貌――とは、とうてい言えないにしても、その容貌の幾分なりかは、垣間(かきま→かいま)見ることが出来たのである。そして、そこから少しずつ、何人もの先生たちや先輩たちに導(みちび=道引)かれ、いわゆる演習(seminar=苗床)という名の授業を通じて、さまざまな哲学者の哲学書を輪読し、精読し、この女神様(die Philosophie/la philosophie)の姿や形や、その顔立ちや為人(ひととなり)を覗き見ることも叶い、その容貌を自分なりにスケッチし、写生し、素描することも不可能ではない状態にまで至ったのは、いやはや数十年後であったのであるから、大変である。

しかも、そのような状態が皮肉な(ironical)ことに、僕に齎(もたら)した変化の一つ......と言おうか、その最たるものが、実は今回、君に話を聴いて貰(もら)っている、僕自身の「哲学離れ」であったから始末が悪い。おまけに、このような僕の「哲学離れ」とは無縁に、むしろ、それに相反するかのごとく、どんどん世の中には「哲学好き」が増えているらしく、この数年来、あの「哲学カフェ」という語によって代表されるような、まさしく「哲学ブーム」まで到来しているかのような気配なのである。実際、僕自身も暫く前から、誰かに頼まれたり、みずから興味を持ったりして、この「哲学カフェ」なる場を大学の授業に組み込む工夫をしてみたり、それどころか僕の暮らしている、和歌山の和歌浦で「哲学カフェ」を開こうか知らん、という段階にまで辿り着いている所である。

と、このように書き出すと、いかにも僕が積極的(positive=肯定的)に、このような取り組みを進める側にいるかのような、誤解を招くと困るので、あえて言い添えておくけれども、僕自身は逆に、あのマルク・ソーテの『ソクラテスのカフェ』(1996年、紀伊國屋書店)を読んでも、あるいは2010年に製作された、ジャン=ピエール・ポッツィとピエール・バルジエの『ちいさな哲学者たち』(原題:CE N'EST QU'UN DEBUT)を観ても、どこかに何か、納得の行かない点が残り、疑問を抱いている側である。その意味において、僕自身は残念ながら、昨今流行の「哲学ブーム」に対しては、いくぶん消極的(negative=否定的)であらざるをえないが、それは僕自身が、かつて「哲学」の授業(lesson)を受けてきた経験と、その自負と、そこから生じる、未来への期待とも表裏一体である。

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