ホームメッセージ近親憎悪について ――「教養」の来た道(239) 天野雅郎

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近親憎悪について ――「教養」の来た道(239) 天野雅郎

近親憎悪(キンシン・ゾウオ)という語を、きっと君も知っているに違いない。でも、この語を実際に君が、みずから口に出したり、文字化をしたりした経験は、ほとんど(と言うよりも、まったく)これまで存在していなかったのではあるまいか。――と、このように藪(やぶ)から棒(ぼう)に言い出した僕自身が、実は、その一人なのであって、今まで僕が「近親憎悪」という語を、みずからの発言や文章の中で、自分自身の問題として話したり、書いたりした記憶は皆無に等しい。とは言っても、それは僕が「近親憎悪」という名の、この、いかにも禍々(まがまが=凶々)しい語と無縁の所で生きていたり、生きてきたり、また、生きていくであろうこととは別問題であり、したがって、それは経験(experience)の次元の話であるよりも、表現(expression)の次元の話なのである。

実際、この語の頭に冠せられている、近親という語を『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈の通りに、そのまま「血縁の近い親族。血縁の近い親類。近族。近戚」と受け取れば、おのずから「近親憎悪」の対象は限られてくるし、限られざるをえないけれども、それを例えば同辞典の挙げている、形容動詞の意味で用いれば、君や僕が「きわめて親しいこと。また、そのさま。親密」の範囲内に含まれる人間関係は、驚くべきことながら、そして、困ったことながら、この「近親憎悪」の射程(range=着弾距離)に入ってくるし、入ってこざるをえない。しかも、その親密性(intimacy)の根っ子の、さらに根っ子にあるものを探し求めて、穴を掘り進めれば、当然、そこに姿を見せるのは君や僕の、もっとも奥深くに隠れ、潜(ひそ=秘・密・私......)んでいる、何者かであったろう。

と、このようにして今回は、きわめてオドロオドロしい、君や僕の耳を驚(おどろ)かせ、目を覚まさせるであろう、ある種の人間関係(human relations)について、僕は君に話を聴いて貰(もら)いたい、と願っている。そして、それは先日、僕が立て続けに、中上健次(なかがみ・けんじ)の原作を映画化した、長谷川和彦(かせがわ・かずひこ)監督の『青春の殺人者』(1976年)と、柳町光男(やなぎまち・みつお)監督の『十九歳の地図』(1979年)を、それぞれ鑑賞し直し、それに合わせて、中上健次の原作自体を読み返したからに他ならないのであるが、このような経緯(いきさつ)を踏まえて、そこから僕が自分自身の問題として振り返らざるをえなかったのは、何よりも父親と母親と、そこに「親」として姿を見せる、父性(paternity)と母性(maternity)の問題であった。

ところで、ひょっとすると君が今まで、この二つの映画を観たことがなく、中上健次の原作(『青春の殺人者』→『蛇淫』)も読んだことがない可能性も、ない訳ではなかろうから、この場で少し、簡単な紹介を済ませておくと、前者(『青春の殺人者』)の方は主人公が、付き合っている恋人のことで両親と悶着を起こし、衝動的に父親と母親を殺害するに至る、世にも恐ろしい物語(と言うよりも、実話)であり、後者(『十九歳の地図』)の方は地方出身の若者が、東京で新聞配達をし、予備校に通う傍ら、その屈折した思いを「いたずら電話」(それどころか、脅迫電話!)という形で発散させる――いずれにしても暗く、鬱々(ウツウツ)とした青春の、遣(や)り場のない暴力を「絶望的な愛情の表明」(松本健一「同時代の爆弾」)と交錯させた、中上健次の出世作でもあった次第。

さて、これらの映画を僕自身は、どちらも公開当時、映画館で観たのであるが、以前、君に紹介した『火まつり』(1985年)と違い、その内容を切れ切れの映像と共に、かなり鮮明に憶えていたのは意外であった。と言うよりも、これらの映画を改めて鑑賞すると、やはり映画には相応の、それを体感するための特権的な時間(瞬間?)があり、僕が20代の前半で観た『青春の殺人者』と『十九歳の地図』が、結果的に僕の記憶に留まり、後に30歳を迎えて観た『火まつり』は、その大半が僕の頭の中から姿を消してしまっていたのは当然であったのかも知れない。まあ、これらの映画に出演した、水谷豊(みずたに・ゆたか)や市原悦子(いちはら・えつこ)や、さらには蟹江敬三(かにえ・けいぞう)や沖山秀子(おきやま・ひでこ)の、それこそ驚異的で、憑依的な演技力を抜きにすれば。

ともかく、これらの映画を通じて、あるいは中上健次の原作自体を読み返して、僕は人間にとって父親(father)や、逆に母親(mother)と呼ばれる存在が、いかに重要な役割を果たし、その存在理由(raison d'être)を持つものであるのかを再認識している所である。とりわけ、このような父親と母親の役割が、一人の人間の成長に際して失われたり、抜け落ちたり、忘れ去られたりすると、その喪失や欠落や忘却を、どうやら人間は自分自身が、まさしく父親や母親や、要は「親」になっていく過程において、それを誰か、別の代替者で穴埋めし......痛切に、痛切すぎるほどに痛切に、その誰かを請い願わざるをえないらしく、その請願が仮に、うまく相手に伝わらなかったり、行き違いを起こしたりすると、そこに取り返しの付かない悲劇や惨劇までもが生まれかねないから、すさまじい。

その意味において、はなはだ人間が生きていくことは難しい。そのような、あたりまえのことを、この齢(よわい=世這)になって僕は感じているし、その点でも中上健次の小説やエッセイを、このようにして再度、手に取ることの出来た偶然(happening)と、その幸運(happiness)に対して、思いを馳(は)せざるをえない。でも、ことによると君は僕とは違い、中上健次のような強烈な個性(personality=役割設定)や、暴力的なまでの自己主張(self-assertion=断定発言)に、とまどったり、辟易(ヘキエキ)したり、拒絶反応を示したりする側なのかも知れないね。――それは、それで一向に構わない、と言えば言えるけれども、おそらく君が今度は、いずれ近い内、みずからが父性や母性の体現者を演じなくてはならなくなった時、君の未来は君の現在を、否定するに至るであろう。

そう言えば、最近、僕の所に相談に来る、さまざまな大学生の話を聴いていても、いつも気になるのは、このような父性や母性の擦(す)れ違いや、そこから生じる、ある種の親子関係の歪(ゆがみ→ひずみ)や捩(ねじれ→よじれ)である。そのような折、僕自身は単純に、父親であることは漢字の字面のごとく、斧(おの=父+斤)を手にして何らかの食べ物を家族の許に運ぶ役目であり、そのためには多くの知(チ→チチ)を備えた存在である必要がある、と考えていたり、その一方で母親も、これまた漢字の字面のごとく、そこに二つの乳房を持った女の姿をイメージし、その背景には海(=水+毎→母)や、そこに打ち寄せる波(ハ→ハハ)を、いたって自然に、素朴に思い描いていたりする自分に対して、どうやら相当に時代遅れの、時代錯誤の感をも、催さざるをえないのである。

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