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『枯木灘』発『志賀島』行 ――「教養」の来た道(245) 天野雅郎

今回は最初に、まず岡松和夫(おかまつ・かずお)という作家の話を、僕は君に聴いて貰(もら)いたい、と願っているけれども、この作家の名を君が知っているとすれば、それは君が正真正銘の文学青年か、あるいは文学青女(→寺山修司『青女論』1974年、角川書店)か、それとも僕の、この一連の文章(「教養」の来た道)の超(チョー!)奇特な愛読者で、しばらく前の回(第236回:中上健次論)に僕が、この作家の名を中上健次(なかがみ・けんじ)と並べて、昭和五十一年(1976年)の芥川賞(第74回)の受賞者として取り上げていたことを憶えてくれていたか......その、どちらかのケースしか僕は思い付かないのであるが、それ以外の理由が残されているとすれば、それは君が福岡(福岡県福岡市)か横浜(神奈川県横浜市)に住み、暮らしたことがあるからなのかも知れないね。

と言ったのは、この作家が昭和六年(1931年)に福岡で生まれ、やがて長い間、横浜の関東学院女子短期大学の教員をしていたからに他ならない。ただし、この短期大学は今から、もう10年以上も前(平成十六年→2004年)に閉校となり、存在していないけれども、この短期大学に国文科が設置された年(昭和四十一年→1966年)に、この作家は国文学の教員として採用され、それ以降、この短期大学と、さらには高等学校の教壇に立ち続けていた訳であって、このような芥川賞作家が、また、昭和六十一年(1986年)には新田次郎(にった・じろう)文学賞も、平成十年(1998年)には木山捷平(きやま・しょうへい)文学賞も、それぞれ受賞している小説家が、どのような授業を行なっていたのであろう、と僕個人は同業の誼(よしみ)で興味が湧くが、それも現時点では叶わない話である。

ともあれ、このようにして教員(teacher)として、大学や高校の教壇(platform)に立ちながら、この小説家は計20冊を凌(しの)ぐ、短篇と長篇と、それから一休宗純(いっきゅう・そうじゅん)や源実朝(みなもと・の・さねとも)に関する研究書を、次々と執筆していったのであるが、どうやら最後の作品は目下、僕が膝の上に置いている、平成十七年(2005年)に講談社から刊行された『少年飛行兵の絵』であったらしい。と言うことは、それから岡松和夫が亡くなる年(平成二十四年→2012年)まで、まだ7年の歳月は残されているのであり、その長さを思うと、この作家が最晩年、どのような境遇で、どのような体調と心境の下に置かれていたのか、気に掛かる所である。なお、この『少年飛行兵の絵』の末尾には、次のような「あとがき」が書き記されているので、ご参考までに。

 

二十六歳から横浜の高校で国語の教師を始めた。残りの時間を使って小説を書いたが、読書も学生時代より幅が広くなった。心理学の本を読んだのは生徒の気持に少しでも近づきたいと思ったせいだが、仏教系の本を読んだのは唐木順三氏の本を理解したいと思ったことが大きい。〔中略・改行〕中国の禅僧〔、〕趙州(じょうしゅう)の次の言葉に会ったのは、その後のことである。「一枝(いっし)の草(くさ)を把(と)りて丈六(じょうろく)の金身(こんじん)と為(な)して用(もち)ゐ、丈六の金身を把りて一枝の草と為して用ゆ。仏(ぶつ)は是(こ)れ煩悩(ぼんのう)にして、煩悩は是れ仏なりと」。〔改行〕なるほど、なにげない一本の草が釈迦(しゃか)と同じ役割に輝き、釈迦も身を一本の草に変じて〔、〕ささやかな役目に身を投ずる。これは小説のなかの作中人物の姿と同じではないか。作者が一文字ずつ記して紙上に〔、〕そのイメージを顕(あらわ)にする人物たちは、一草にして釈迦のごとくでなくてはならない。釈迦にして一草のごとくでなくてはならない。

 

と、このような引用をして、僕が君に何を伝えたいのか、おそらく唐木順三(からき・じゅんぞう)の名前一つ、聞いたことのない君には、皆目(かいもく)見当が付かなくても当然であろう。が、この当時、唐木順三は『中世の文学』や『千利休』や『無用者の系譜』や、あるいは『無常』や『日本の心』や『飛花落葉』といった著作を次々と、彼自身が共同で設立した筑摩書房から刊行し、おそらく日本人が日本語で、何かを考える際の典型的な頭の使い方や、それどころか、ある種の「人間像」に近いものまで構築しえた、稀有な思想家であり、哲学者であったろう、と僕は評価をするけれども、それは突き詰めるならば、岡松和夫のような世代の日本人の、日本語力を受け皿にして、はじめて可能であった「読書」や、その「理解」でもあったのではなかろうか、と反省せざるをえない。

ちなみに、僕が大学生であった頃にも、例えば『詩と死』(1969年、文藝春秋)や『日本人の心の歴史』(上巻→1970年、下巻→1972年、筑摩書房)を通じて、依然として唐木順三に心酔し、追随しようとする、いわゆるエピゴーネン(Epigonen=子孫)は僕の周囲にも、ちらりほらりと存在していたし、ひょっとすると、その中の一人が僕自身であったのかも知れないが、今にして振り返れば、たかだか二十歳(はたち)や其処等(そこら→そこいら)の時分に唐木順三のことを分かるはずなど、ないのであり、それは完全に独(ひと)り善(よ)がりの、笑止千万な話であり、まさしく「後悔、先に立たず」とは、よく言ったものである。でも、そのような若気の至りを欠いていては、むしろ逆に、出会えないのも唐木順三や、ひいては岡松和夫の挙げている、趙州であったのではあるまいか。

ところで、僕が今回、岡松和夫の話題を持ち出したのは、ほかでもない。実は、この場において彼の取り上げている、この中国の唐代末期の禅僧、趙州の言葉――「一枝の草を把りて丈六の金身と為して用ゐ、丈六の金身を把りて一枝の草と為して用ゆ。仏は是れ煩悩にして、煩悩は是れ仏なり」と、かなり似通った地点で筆を執り、小説を書いていたのが、あの中上健次であったのではなかろうか......という途轍もない、途方もない連想を、僕は君に聴いて欲しかったのである。事実、これまで僕が中上健次の『枯木灘』を読んでいても、いちばん心を揺すぶられるのは、例えば以下のごとき主人公(竹原秋幸)の「土方」(どかた)としての仕事ぶりであり、また、そのような彼を取り巻く、日の光と風と土と、そして、その土に生まれ、育まれ、死んでいく、木や草の葉や虫や、人であった。

 

土が呼吸しているのだった。空気が呼吸しているのだった。いや山の風景が呼吸していた。〔中略〕つるはしが秋幸だった。シャベルが秋幸だった。めくれあがった土、地中に埋もれたために濡れたように黒い石、葉を風に震わせる草、その山に何年、何百年生えているのか判別つかないほど空にのびて枝を張った杉の大木、それらすべてが秋幸だった。秋幸は土方をしながら、その風景に染めあげられるのが好きだった。蝉が鳴いていた。〔中略〕たちまち体は〔、〕がらんどうになった。その中に蝉の鳴き交う声がひびく。秋幸は草の葉だった。肌に触れる微かな風を受け止めた。土は秋幸の呼吸に合わせて〔、〕また呼吸をはじめる。

 

風が吹いた。秋幸は〔、〕いきなり吹く風に喘ぎ、大きく息をした。血と血が重なり枝葉をのばし〔、〕また絡まりあう秋幸は、吹く風には一本の草、一本の木、葉と同じなのだった。風を感じとめる草として秋幸は在る。そんな自分が好きだった。いま、むしょうに日を見たかった。日にあたれば、何もかもが〔、〕はっきりと形を取ってあらわれ、草が草にすぎないと分かるように、秋幸は秋幸にすぎないことが分かる。〔中略〕光が撥ねていた。日の光が現場の木の梢、草の葉、土に当っていた。何もかも輪郭がはっきりしていた。曖昧なものは一切なかった。いま、秋幸は空に高くのび梢を繁らせた一本の木だった。一本の草だった。

 

このような引用を、どこまでも果てしなく、続けることが叶うのであれば、どれほど僕は幸福であったろう。――ところが、残念ながら世間では、どうやら中上健次の小説世界と、そこに表現されている人間関係を、このような幸福な感情とは違う、むしろオドロオドロしい、陰湿で残忍で苛酷な、要は......異常な世界であるかのように受け止めているらしく、この作家の小説世界が端的に言って、好くも悪くも普通の、通常の生活や人生や、いわゆる「近代市民社会」においては生じえない事態を、わざわざ扱っているかのごとき印象が、一般に流布し、流通しているかのようなのである。もちろん、その最たるものが『岬』(1976年、文藝春秋)から始まって、この『枯木灘』(1977年、河出書房新社)を経て、やがて『地の果て・至上の時』(1983年、新潮社)へと至る「三部作」であった。

もちろん、この「三部作」で執拗に描かれているのが、いわゆる「近親相姦」(incest)や「兄弟殺し」(fratricide)の物語であったことは、繰り返すまでもないし、その物語自体を、僕自身も決して日常的な、茶飯時の出来事であると強弁する心算(つもり)は、ない。けれども、それを逆に常軌を逸した、異常(abnormal)の一言で片づけ、臭い物に蓋をするかのような態度を取ったり、あたかも食傷気味の態度を装ったりするのは、いかがなものであろう。なにしろ、このような物語は以前、僕が君に僕個人の回想も交えて、伝えておいたように、おそらく昭和三十年代頃までの日本では、それほど奇妙な、珍奇な出来事ではなかったからである。そして、そのことを君や僕に教えてくれる作品として、僕は次回、岡松和夫の『志賀島』の話を、君に聴いて貰えれば、と切望している次第。

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