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『熊野集』を読み通す ――「教養」の来た道(260) 天野雅郎

中上健次(なかがみ・けんじ)の『熊野集』を最初に手に取ったのは、この本が昭和五十九年(1984年)に講談社から出版された時ではなく、また、この本が再度、著者自身は「出すつもりはない、と宣言した」はずの「文庫本」(「著者から読者へ――問という大岩」)という様式(スタイル)で、その4年後(昭和六十三年→1988年)に刊行された時でもなく、そこから、さらに4年が経過して、この著者自身が逝去を遂げた年(平成四年→1992年)の出来事であったのを、よく僕は憶えている。なぜなら、僕が目下、そのページを捲(めく)り直している『熊野集』の、講談社文芸文庫版の奥付(おくづけ)を見ると、そこには「一九九二年五月六日第五刷発行」の日付を透かして、この著者自身の命日(8月12日)の回想が、ぼんやりとした形で僕の頭に蘇ってきたりもするからである。

この点に関しては、すでに今年の春以降、僕は「中上健次論」を始めとする論稿で、あれやこれや、当時の話を君に聴いて貰(もら)っているのであるけれども、要は僕個人と中上健次との間には、このように彼の没年が明瞭な楔(くさび)となって、さしはさまっているのであって、それが折しも、まだ和歌山に僕が移り住んでから間も無い頃の、新鮮な気持ちとも重なり合っているのであった。したがって、この『熊野集』の「文庫本」も僕は、まだ中上健次が亡くなってから間も無い頃に、おそらく例のごとく、今では姿を消してしまった「宮井平安堂」(→「作家の工房」)の本店あたりで、きっと買い求め、読み耽(ふけ=更・深・老)ったものに違いない。......と書きたいのは山々(やまやま)であるが、どうやら僕の「文庫本」は、そのような甘美な追懐を許してくれそうにない。

と言ったのは、この「文庫本」を今回、僕は手に取り直してみて、あらためて気が付いたのであるが、どうやら僕は結果的に、この『熊野集』を読書半(なか)ばで放り出したようであって、そのページに何本かの傍線が引かれているのは、ちょうど前半部分の「妖霊星(ようれぼし)」までなのである。――と書き継いで、この時点で君がフムフムと、僕の話に納得をしてくれるのであれば、きっと君は僕と同類で、この本の面倒な、ややこしさに嫌気が差し、僕のように「や~めた」の声を発したか、それとも君は僕とは違い、このようにして一見、読者のことを考えず、ほとんど読者の方を振り向こうとさえしない(......^^;)この「小説家」の態度を容認し、以下のごとき「問という大岩」と付き合い、この本を読み通すだけの知力や、おまけに体力まで、備えていたことになるであろう。

 

数多くの小説を日常的に産み出す者、それを小説家と自称他称するのであるが、言葉を書くという行為は〔、〕いつも、絶えず、その小説家に様々な問を発する。その問に答え切って再度、筆を執っているわけではない。問が〔、〕あまりにも切実で、だから、問そのものを書きつける事もあれば、問の重さを支え切れず、問に押し潰されて流れだした精神の液のようなものをインクにして、言葉を書く事もある。一九八〇年のはじめだったか、この「熊野集」を執筆しはじめた頃、私の問という大岩、シジフォスが宿業として山の上に押し上げる〔、〕あの大岩に、向いあっていた。

 

ちなみに、このような中上健次の述懐に添えて、この場で少々、補足を加えておくと、彼が『岬』で「芥川賞」を受賞するのは昭和五十一年(1976年)のことであり、その翌年以降、今度は『枯木灘』で「毎日出版文化賞」と「芸術選奨文部大臣賞」の受賞が続き、そのような喧騒から逃れるようにして、彼がアメリカに移り住むのは昭和五十四年(1979年)のことである。そして、そのアメリカでの生活が頓挫し、ふたたび彼は日本に戻り、しばらく和歌山の熊野や新宮や、あるいは勝浦で暮らすことになるのであるが、この「故郷」での生活も彼には、安住の場となりえなかったらしく、やがて34歳になった彼が東京での暮らしを再開させるのが、上記の引用の「一九八〇年」であり、それが今回、僕が君に話を聴いて貰っている、この『熊野集』の執筆時期とも重なり合っている訳である。

とは言っても、この『熊野集』が実際に出版されるのは、冒頭にも触れた通り、それから4年後(昭和五十九年→1984年)のことであり、いつもの中上健次の執筆スピードからすれば、異常に遅い、と評さざるをえない。もちろん、この間には驚くべきことながら、最終的に彼の代表作(マスターピース)ともなる『千年の愉楽』も『地の果て 至上の時』も、また『日輪の翼』も相次いで刊行されているのであるから、これを異常に遅い、と評することには語弊があるし、とんでもない(!)という反論も起こりうるであろう。が、このようにして同時進行であれ、彼が「数多くの小説を日常的に産み出す者」であり、それを彼が「小説家と自称他称するのである」と述べている以上、やはり彼が『熊野集』に費やした時間と労力と、その悪戦苦闘は、予想外のものでもあったのではなかろうか。

事実、この『熊野集』には「不死」から始まって「鴉」(からす)へと至る、すべて同一の雑誌(『群像』)に掲載された、計14本の作品が並べられ、収められているのであるが、これらの作品は大きく、この「小説家」に特有の「物語らしい物語」と、それらの「物語とは〔、〕いささか毛色の変った、物語というより物語の背景を説明しているかのように、一見見える文章が織りこまれている」のであって、今、僕が手にしている講談社文芸文庫版の解説(川村二郎)に従えば、このようにして「現実を遠く離れた幻怪な綺譚と、現実に即した日常的な話柄の報告とを、無差別に混在させた一巻」が、この『熊野集』の独自の性格であったことになる。――「ここでは〔、〕まさに、物語と現実とが、何の差異もなしに同一視されているのだ。この二つの言葉は同義語なのだといってもよい」。

が、このようにして「物語と現実とが、何の差異もなしに同一視されている」上に、それを「同義語」とも見なしうる所に、この『熊野集』の魅力も難点も、おそらく抱え込まれているのであり、実際、この本を僕が最初に手に取った折も、その「物語」と「現実」との混在(混濁?)に辟易(ヘキエキ)して、この本を僕は読書半ばで放り出してしまった訳である。そして、その辟易した感じは、それから四半世紀を経た現在でも、基本的に変わっていないし、このようにして足掛け3年の時間を費やし、そこに9ヶ月もの中断期間まで挟みながら、この本を一冊の本として纏(まと)める必要が、はたして著者にとっても読者にとっても、存在していたのであろうかと、個人的に現代日本の出版業界や、その体質に対して懐疑的な、僕のような読者には拭い難い疑いが残ってしまうのである。

でも、今回の読書を通じて、はるかに僕は、この本を昔、読んだ時よりも読み易く感じたし、この本を中途で放り出さず、読み通すことも出来たのであった。多分、それは僕が以前よりも年を取り、要は年老いたことに、その原因があるのであろうが、それならば逆に、どこか世間では若者向けの、まさしく「若気の至り」(youthful impetuosity)を表現する作家であるかのように見なされている、この中上健次という作家が、むしろ若くして老成した、老熟した作家であった可能性も、君や僕には開かれてくるのではないか知らん、と僕は感じているし、そのことが僕個人には、わずか46歳で亡くなった、この「数多くの小説を日常的に産み出す者」であり、産み出し過ぎる者でもあった、中上健次への追悼ともなりうるのではないか知らん、と感じている......と言おうか、願っている次第。

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