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『化粧』を読む ――「教養」の来た道(262) 天野雅郎

またぞろ(又候→またそうろう→またぞうろう)中上健次(なかがみ・けんじ)のことを書き始めている。性懲りもない、と言えば――それまでのことではあるが、その際の懲(こ)りるべき性(ショウ→呉音、漢音→セイ)とは文字どおりに、君や僕の生まれながらの、持って生まれた心(こころ)のことを指し示しているのであろうから、それが年齢と共に凝(こ)り、どんどん凝り固まって、凝々(こりこり)になり、もう懲々(こりごり)と(......^^;)ならない内は、やはり懲りることの叶わないのが性の、まさしく性たる所以(ゆえん)であり、それは男性であっても女性であっても、変わる点はなく、よほど反省能力を備えた男女でない限り、いつまで経っても男は男の性(さが)を、女は女の性(さが)を、それぞれの相(さが)として背負い込み、生きていくものであるらしい。

そのことを、僕は先日、中上健次の『熊野集』に続いて、今度は彼の作品群を時間的に遡る形で、昭和五十三年(1978年)に講談社から刊行された『化粧』を読み、強く感じた次第。なお、前者(『熊野集』)が昭和五十五年(1980年)から足掛け5年を費やし、やっと出版されたのに対して、後者(『化粧』)も冒頭の「修験」(しゅげん)が雑誌(『文藝』)に掲載されたのは昭和四十九年(1974年)のことであって、そこから数えて、この「短篇小説集」が日の目を見るまでには、同じ5年という歳月が介在していた訳である。が、後者は前者と違い、その掲載の「場所」を色々と違(たが)えていたのも、この本の「後記」で著者自身が述べている通りである。――「この一冊が成るにあたって様々な雑誌という場所の力と人の力を借りた。いまは亡い人もいる。祈りのように謝意を記す」。

と、このような物言いに立ち会うと、僕個人も以前、萩原朔太郎(はぎわら・さくたろう)の詩題(「游泳」→『蝶を夢む』)を借りて、そのまま同じ名(『游泳』)の同人誌(coterie magazine)を主宰していた頃の思い出や、さまざまな人の名や顔が、つぎつぎと頭を過(よぎ)るけれども、振り返れば、このような「雑誌」(magazine=火薬庫)が火付け役となって、文学は疎(おろ)か、ひょっとすると世の中が動き、変わっていくのではないか知らん......と感じられる時代と、ほとんど(まったく?)感じられない時代が存在しているではあるまいか。少なくとも、僕個人が今回、中上健次の『化粧』を読んでいて、興味を持ったのは、このようにして彼が「芥川賞作家」となる以前、一人の「同人誌作家」として過ごした時期のことであり、端的に言えば、その性懲りのなさである。

 

浮びいづるごとくにも

その泳ぎ手はさ青なり

みなみをむき

なみなみのながれははしる。

岬をめぐるみづのうへ

みな泳ぎ手はならびゆく。

ならびてすすむ水のうへ

みなみをむき

沖合にあるもいつさいに

祈るがごとく浪をきる。

 

ところで、僕個人は繰り返すまでもなく(→「中上健次論」拾遺)これまで中上健次という作家の、よい読者であった訳ではないし、これからも多分、似たり寄ったりの状況であろう。したがって、この作家の作品を逐一、それが書かれたのと同じ時期に、同じ順序で読むことを、まったく経験として、これまで積み重ねていないし、今回、この『化粧』という「短篇小説集」を手に取り、読み通したのも最初の経験であった。その限りにおいて、あえて悪い読者の感想(impression=感動)から言うと、よくも悪くも、ここまで自分に拘泥し、執着し、自分の「私生活」を明(あ)け透(す)けなまでに抉(えぐ)り、そこから断じて、虚構とは見なしえない形で、自分の血や涙や膿(うみ)を剔出(テキシュツ)し、これを晒(さら=曝)し出す姿には、ある種の畏敬すら感じざるをえない。

なにしろ、この『化粧』の中では「彼」が、昭和四十五年(1970年)に「同人誌仲間」であった女性と結婚をし、その翌年と翌々年に二人の娘を授かり、それにも拘らず、いっこうに「親」としても、また「夫」としても、ありきたりの「家族」と「家庭」を築き上げることが叶わず、仕事を変わり、大酒を喰らい、事あるごとに「家族」と「家庭」に対して「暴力」を振るう、言ってみれば、その名の通りの「火宅」(→『岬』)の状態が描かれているからである。まあ、この「彼」の場合には結果的に、そこから急転直下、昭和五十一年(1976年)の「芥川賞」の受賞(『岬』)と、その翌年の「毎日出版文化賞」の受賞(『枯木灘』)へと至る道が、開かれることになった訳ではあるけれども、このような言草(いいぐさ=言種)自体が第三者の、他人事であったのも言を俟(ま)たない。

要するに、このようにして『化粧』という「短篇小説集」は、そのような「彼」と、その周囲を取り巻く人々の、まさしく血だらけの、血まみれのドキュメント(document=証拠資料!)という様相を呈しているのであるが、僕が今回、この「短篇小説集」を君に紹介しようと思い立ったのは、ほかでもない。それは第一に、この「短篇小説集」が前回、君に話を聴いて貰(もら)った『熊野集』と、ほとんど瓜二つの、おかしな言い方にはなるけれども、まるで時期を違(たが)えて生を享(う)けた、双子(ふたご)のごとき関係にあったからである。――とは言っても、そのような双子の内の、どちらを文学作品として評価をするのか、と問われれば、あくまで僕は世評とは違い、この『化粧』の方に軍配を上げざるをえない。その、唐突なまでの幕切れを抜きにすれば、の話ではあるが。

ちなみに、僕は先刻来、この本を「短篇小説集」という呼び名で言い換えているけれども、それは実は、この本の「後記」で中上健次が、はしなくも「短篇小説とは小さいものの力である。小さいものは時として、神人ほどの力を持つ」と述べていることに関して、共感を催さざるをえないからである。ただし、それは同時に、この「後記」の末尾において、さらに「彼」が「日本文学に熊野という土地が絶えず〔、〕あらわれる。その熊野に触発されて書いた連作集である」と付け加えている事態と、重なり合うのか知らん、重なり合わないのか知らん......という懸念とも表裏一体であって、その点、この『化粧』という「短篇小説集」が最初から最後まで、いわゆる「大男」のコンプレックス(complex=複合表象)によって彩られていることに対して、僕自身は逆に、注目をせざるをえない。

なぜなら、この「短篇小説集」の冒頭で、この「大男」は「身長一メートル七十三、体重九十五キロ」と、事細かに規定されており、これを仮に「肥った男」と見なすことは出来ても、そこから「彼」を「戦後の今日でも〔、〕けっして普通ではない大男の類に入る人間だった」と言い切るのは、かなり無茶な設定なのではあるまいか。事実、この本自体にも「今は、大男などとは言わない。そんな者は〔、〕ざらにいる」と、当時の状況が踏まえられているのであり――その点から推し測ると、どうやら中上健次にとって「大男」とは、一見、何とも不可解で、不思議な話ではあるけれども、その「大男」が子供のように、赤子のように「おいおい」と声を上げて泣き、泣き続けることにこそ、その存在理由(raison d'être)は、あるらしいのである。例えば、以下の「修験」の一節のように。

 

生きるということは〔、〕いったい〔、〕なんなのか?〔中略・改行〕空〔から〕になった体の中に、白い〔、〕さらさらした悲しみが一気に流れ込んだ。大男は、杉の根方にへたばり、座り込み、深山いっぱいに籠った蟬の〔、〕幾重にも入り混った声を耳にしたまま、声をあげて泣いた。教えてくれ、もう一度〔、〕会わせてくれ、救〔たす〕けてくれ。大きな泣き声だった。〔中略〕杉の幹に顔を擦り寄せ、会いたい、見たい、救けてくれ、とさめざめと、いや、顔をくしゃくしゃにゆがめ大口を開けて〔、〕おいおい泣くのだった。〔改行〕泣き疲れて〔、〕まどろみ、めざめては泣いた。そして眠り込んだ。夜が、瀞〔どろ〕村から那智〔なち〕にむかってはいった熊野山中に音もなく〔、〕やってきた。

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