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『蛇淫』を読む ――「教養」の来た道(264) 天野雅郎

今回、僕が君に話を聴いて欲しいのは、中上健次(なかがみ・けんじ)の『蛇淫』である。蛇淫は「ジャイン」と読む。試しに『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で調べると、そこには露骨に「蛇の精と人間とが通ずること。蛇と姦淫〔カンイン〕すること」と書かれていて、用例には江戸時代の「川柳(せんりゅう)集」の『誹風柳多留』(はいふう・やなぎだる)の一句――「安珍は、すでに蛇淫を犯す処(とこ)」(......^^;)が挙げられているから、この語が当時(文化五年→1808年)は江戸庶民の、まさしく文化的な教養語(!)になっていた事態が窺われうる。と喋り始めたら、もう君は今回の話が、あの「安珍清姫(あんちん・きよひめ)伝説」を介して、しっかり和歌山の風土や歴史や、その伝統(tradition=引き渡し)に根差すものであることを、理解してくれているはず。

とは言っても、このような江戸時代の文化(⇔武化)や教養や、その名の通りの「カルチャー」(culture)でもあった「心の耕し」(cultura animi→キケロ)から、君や僕の心が離れ、背(そむ)き、そのために必要な、耕作手段や耕作方法も、まったく訳が分からなくなってしまっているのが、目下の君や僕の実情であったろう。したがって、ひょっとすると君は安珍や清姫と聞いても、ただポカンとした顔をするしかないのかも知れないね。でも、そのような君であればこそ、君自身が昨今、大流行の「邪淫」(ジャイン)の罠(わな)に陥(おちい=落入)り、知らない間に怖ろしい、蛇淫の淵に沈んでいるのかも知れないから、ご用心。――「夫婦でないものの情事。また、夫婦であっても行なってはならない性行為。人の道に〔、〕はずれた男女の〔、〕まじわり。婬戒」。(同上)

ちなみに、たまたま先日、僕は「今年の夏休みも、もうじき終わりだな~」と思い、ふと思い立って、よく訳の分からない話ではあるけれども、かつて島耕二(しま・こうじ)が監督をし、市川雷蔵(いちかわ・らいぞう)と若尾文子(わかお・あやこ)が主演をした、おそらく日本で唯一の「安珍清姫映画」である『安珍と清姫』(1960年、大映→第日本映画製作株式会社!)を鑑賞した次第。と述べてから、さっそく修正を施すが、そう言えば......以前、僕が「近親憎悪について」(第239回)と題する一文で取り上げた、あの長谷川和彦(はせがわ・かずひこ)監督の『青春の殺人者』(1976年、ATG→日本アート・シアター・ギルド)も、これが中上健次の『蛇淫』の冒頭の、まさしく「蛇淫」を原作にした映画であった以上は、やはり「安珍清姫映画」に加えるべきものでもあったろう。

このようにして振り返ると、それ以外にも「蛇淫」と繋がる形で、例えば上田秋成(うえだ・あきなり)の『雨月物語』の中の「蛇性の婬」(じゃせいのいん)を映像化した、あの溝口健二(みぞぐち・けんじ)監督の『雨月物語』(1953年、大映)も、このラインアップの一つに入るであろうし、僕自身は残念ながら、いまだ目にしたことがない、と言うよりも、もう目にすることは叶わないけれども、実は谷崎潤一郎(たにざき・じゅんいちろう)が脚本を書いたことでも知られている、その名の通りの『蛇性の婬』という映画も存在していたのであった。なお、この映画自体は大正十年(1921年)の、今から百年近くも昔の「サイレント映画」であり、監督は当時の「ハリウッド俳優」でもあった、トーマス・クリハラ(Thomas Kurihara)こと栗原喜三郎(くりはら・きさぶろう)である。

さて、このような「安珍清姫映画」や、その原作(オリジナル)に当たる「安珍清姫伝説」を踏まえつつ、僕は今回、君に中上健次の『蛇淫』の話を聴いて貰(もら)いたい、と願っている。が、このような「原作」の名に値するものが、そもそも存在せず、存在していたとしても、その素性が君や僕には、ほとんど(まったく?)雲を掴むようなものに姿を変えてしまっているのが、困ったことに、この「伝説」(レジェンド)と呼ばれる物語の特徴であった。その点、それは「神話」や「昔話」とも、紙一重のものではあるけれども、割り切って言えば、一方の「伝説」が「多く歴史上の人物や特定地域の自然物、事件などと結び付く現実性を有する点」(『日本国語大辞典』)において、もう一方の「神話」や「昔話」とは違っている、と一応の所、区別して、理解するしかないであろう。

その意味において、さしあたり君や僕が中上健次の「蛇淫」を読んで、そこに再度、あの「大男」が登場し、その「大男」の「体が大きかった。乱暴だった」と執拗に繰り返され、しかも、それが「へんに〔、〕ごつごつしてみえた」上に「食う物がなければ、なにを殺してでも食う〔、〕という体だ。〔中略〕こえだめのそばに〔、〕わざわざ埋めた牛の死骸を掘りおこしてでも食い、生きのびる体だ」と、あれこれ注釈を加えられてはいても、それを「伝説」に相応しい「大男」の行動様式として捉えれば、やはり彼は、ここでも決まって子供のように、赤子のように「おいおい」と泣き、泣き続けざるをえなかった訳である。それが――突然、自分自身の父親と母親を衝動的に殺し、その死体を風呂場の「浴槽に女と二人がかりで放り込んでから」後の、不測の「涙」ではあったとしても。

ところで、この「蛇淫」という「短篇小説」は冒頭に、まず「女は泣きもしなかった」という一文が置かれ、この「女」が「大男」の両親の死んだ(と言うよりも、殺された)後、平然と「浴場のタイルをこすった」り、流された血を洗ったりして、この「大男」に向かって「あんた、そうやけど、えらいことしたなあ」と、喋り掛ける所から話は始まっている。そして、それに対して「しょうない......」と「大男」は答え、何度か「吐き気がする」と呟きながら、それにも拘らず、この「女」をベッドに連れ込み、いつものように「ほら、はよ、脱げ、どつくど」「ほら、はよ脱げ、裸になれ」と声を荒げる始末。――まあ、このような愁嘆場(シュウタンバ)を君や僕は、普段、経験することがないから、これを「不条理」(absurdité)とでも、この場では称しておくしかないのであるが。

でも、それにも拘らず、と繰り返すけれども、この「短篇小説」の末尾において、とうとう「順ちゃん」(!)と呼ばれる、この「大男」は泣き出し、それに誘われるかのようにして、今度は「女」も「泣かんといてよお、泣かんといてよお」と、これまた涙を流し出すのである。この事態を、君や僕は一体、どのような事態として受け止めるべきなのであろう。おそらく、それが「蛇淫」という名の、この「短篇小説」において問い掛けられている、唯一の意味......と言えば、意味なのであって、そのことを一番、象徴的に象(かたど=形取)っていたのが、この「短篇小説」に持ち込まれている、あの「いちじく」であったことは疑いがない。もちろん、それは古く『聖書』(「創世記」)に描かれた、あの「知恵の木の実」とは、ずいぶん違う「善悪」を、もたらすものであったけれども。

 

彼は、思った。女は、素裸だった。これが蛇か、と思った。これが淫乱か? 彼は女の顔をみた。確かに風呂場の中に放り込まれている二人からは、蛇にも〔、〕みえるかもしれなかった。〔中略〕この齢になって、一体なにを〔、〕しでかしたのだろう。いや、この齢だから、こんなことをやった。女は彼の裸の胸に腕をまわす。彼は、長い間、こんなことを計画してきたように思った。

 

涙が眼に〔、〕あふれた。あの時、不安だった。焦立(いらだ)っていた。「順ちゃん、どうしたん?」 女は、言った。「順ちゃん、泣いとるん?」 女は、訊いた。「順ちゃんが、泣いとるん?」 女は彼をみつめた。〔中略〕口をあけ、淫乱の炎が出ているという眼に、おおつぶの涙を〔、〕ふくれあがらせる。「順ちゃん、泣かんといてよお、泣かんといてよお」と、声をあげて泣く。

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