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宗教と教養の狭間 ――「教養」の来た道(28) 天野雅郎

狭間は「はざま」と読む。古代には清音で「はさま」と言ったが、これが「はざま」と濁音になるのは、どうやら中世以降のことであるらしい。場合によっては、この語に峡(音読:キョウ)や谷(音読:コク)という漢字を宛がうこともあるが、このことからも窺えるように、この語は元来、山と山に挟(訓読:はさ)まれた、狭(訓読:せば→せま)い間(訓読:ま)――要するに、谷(訓読:たに)のことを指し示していたが、そこから転じて、ある何かと何かの狭い間を、一般に意味するようになった。ちなみに、この語の動詞が「はさむ」や「はさまる」であり、また、いつも君の使っている、鋏(はさみ)という名詞も同語源である。今回は、そのような狭間という語を意識しつつ、宗教と教養の狭間という表題で、この一連の文章(「教養」の来た道)の続きを、僕は書き継ぎたい。

ところで、ここ暫く、僕は孔子や『論語』の話題を中心にして、いわゆる儒教(コンフューシャニズム)の話を、君に聴いて貰(もら)っているけれども、よもや君が儒教のことを、宗教とは認めず、宗教には決まって、いつも何らかの「神」や「仏」が顔を出さなくてはならない、と思い込んでいるはずは……ないよね? それに、この二箇月ばかりの間の、この一連の文章を振り返ると、僕の口からは度々、仏教という語もキリスト教という語も、それどころか、イスラム教(イスラーム)やヒンドゥー教という語も飛び出しているのであるから、その点では君も、安心をしてくれているに違いない。が、そのような僕の不信心(impiety)や無節操(inconstancy)が、場合によっては意外な、僕自身の予想も付かないような(想定外!)反応を、惹き起こすこともありうるようである。

と言ったのは、このような僕の、いかにも「いい加減」な態度が、そのまま単純に受け止められる訳ではないらしい、と僕は昨今、身に染みているからである。――例えば、ちょうど一年前(2012年6月29日)、僕が和歌山大学の教育研究集会(「夢活フォーラム」)で、この大学の教養教育の理念や現状や、今後の課題について、説明をする機会を与えられ、その映像が本学のHPに映し出される(!)という、僕にとっては信じ難い苦痛と、苦難に耐えながら、どうにかこうにか、その場の話を終えた後、その場で話を聞いて頂いた方から、多くの意見……好意に満ちた意見も、悪意を孕んだ意見も、無関心に溢(あふ)れた、意見と呼べないような意見も含めて、多くの意見を頂戴したが、そこに僕は個人的に、いささか興味深い意見を発見(discovery=暴露)することになった次第である。

その意見とは、本学の教養教育が「教養の森」の名を冠せられるに至った理由や、その経緯を説明した文章の中で、たまたま僕が『聖書』の「生命の木」や「知恵の木」や、あるいは「十字架」を、その名の通りの「教養の森」と、そこに鬱蒼(ウッソウ)と生い茂る「木」の実例(example)として挙げていることに対して、危懼を表明するものであり、それが「一部の人に抵抗を受ける」ことを危ぶみ、懼(おそ)れるものであった。――この意見を読んだ時、僕自身は一瞬、狐に摘(つま)まれたような(失敬)気がしたが、その後で、我に返って考えたのは、この意見を書いた人が、なぜ、このような危懼を表明するに至ったのか、また、その危懼の原因となる「一部の人」とは、どのような人々であり、その人々は、いったい何に対して「抵抗」をするのであろうか、という点であった。

確かに、世の中には『聖書』を信じない人や、これを目の敵(かたき)にする人は幾らでもいるし、その象徴(シンボル)である「十字架」に対しても、ことさら嫌悪感を抱く人の数は、僕の想像を遥かに超えた値であるに違いない。けれども、僕が『聖書』を例に挙げ、その中に登場する「生命の木」や「知恵の木」や「十字架」を取り上げたのは、これらの「木」が広く、ユダヤ教やキリスト教という特定の宗教の枠を超え、人間の生と死と、知の本質(「知」とは?)を物語っているからであり、僕自身が特定の宗教の、布教活動に励んでいる訳では、さらさら無い。もっとも、その際の「宗教」が意外にも、何と「教養」と密接な関係にあり、その表記の半分(50%)が同じ「教」の字から作られている点も、しっかり私たち(いわゆる、日本人)は、受け止めるべき事柄のはずであるが。

万が一、このような形で『聖書』に言及することが禁止され、差し止めを食らってしまうことになると、実に困ったことに、僕自身は『聖書』という語を口から発し、これを論(あげつら)うことさえ不可能になってしまい、ほとほと商売(?)も上がったりだ、と嘆かざるをえないことになる。そして、この点は『コーラン』であろうと、数限りない仏典であろうと、まったく変わりはない。要するに、このようにして不信心な、僕のように無節操な側からも、気兼ねをすることなく、場合によっては遠慮がちに、それでも言及することの叶うのが、やはり『聖書』や、あるいは『コーラン』を始めとする「世界宗教」の教典なのではなかろうか。そうでなければ、人類は再度、宗教裁判や異端審問の時代に舞い戻る、恐怖を蘇らせざるをえないが、そのような事態を、僕は真平御免である。

このように考えると、いったい『聖書』に言及することで惹き起こされる反応、多分に私たち(「日本人」)に特有の反応とは、どのような由来と来歴を持つものなのであろうか、という点が気になってくる。この点については、いずれ稿を改めて、君に話をする積りであるが、同様の反応は、例えばデカルトの「哲学の木」(=「学問の木」)からは生じないであろうし、生じるとすれば、それは私たちが、いまだ17世紀の住人であることの証(あかし)ともなるであろう。何故、宗教という語によって惹き起こされる反応が、哲学や学問や、いわゆる科学(サイエンス)に対しては、惹き起こされないのであろうか?そのような区別(差別?)の根拠が、よく僕には分からないし、それならば、例えばギリシア神話や日本神話に対しては、君も僕も、どのように振る舞えば、よろしいのであろう。

さて、このような次第で、僕が今回、君に一読を薦めたいのは、僕自身の読書歴と、僕の個人的な判断に従えば、これまで僕の読んだ限りでの、最高の「宗教書」の一つであり、それは、ハンガリーとルーマニアの国境に生まれ、ドイツで学び、ギリシアとイタリアを愛し、結果的にはスイスで没した、国際的な神話学の研究者、カール・ケレーニーの主著(『神話と古代宗教』)である。最初、この本の邦訳(高橋英夫訳)は、新潮社から1972年に刊行され、やがて20年後(1992年)に復刊され、さらに2000年、今度は筑摩書房から文庫本(ちくま学芸文庫)で出版されたが、残念ながら、その何れもが、現在は入手困難なようである。が、この本を通じて、僕は「宗教」(religion)が、人間の「つつしみ」の一様式であり、別表現に過ぎないことを知り、ひどく嬉しかったのを、今でも忘れない。

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