ホームメッセージヒロイン談義 ――「教養」の来た道(288) 天野雅郎

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ヒロイン談義 ――「教養」の来た道(288) 天野雅郎

ヒーローの話の次はヒロインの話に決まっている、と言えば、それまでのことであろうし、ヒーローの話に続いてヒロインの話を欠くのは片手落ちだ、と言えば、これまた当然至極の物言いでもあろう。と言う訳で、今回も前回に引き続き、君や僕がカタカナ書きの日本語(すなわち、外来語)で「ヒーロー」や「ヒロイン」と呼んでいる、あの「半神半人」(demigod)のことを、あれこれ喋り直したい。――と書き出して、いささか面倒臭いことを付け加えるようで、恐縮であるけれども、もともと「ヒーロー」(hero→heros)や「ヒロイン」(heroine→heroine)が前々回も触れた通り、古代のギリシア人に由来する語であるのに対して、これを「半神半人」と規定したのはギリシア語から、やがてローマ人が引き継いだ、ラテン語(demigod→semideus)経由の観念であったから、念のため。

でも、このような受け渡しの中から、ひょっとすると現在、君や僕が普通にヒーローやヒロインと称している......まったく「半神半人」ではない、要は全人(?)に過ぎないヒーローや、あるいはヒロインは姿を見せるのではないか知らん、と僕には感じられる点が多く、その点からも細かい、このような小さな言の葉(は=端)の穿鑿(センサク)は忘れられてはならない、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。ちなみに、このようなヒーローやヒロインの翻訳語として、君や僕は一般に「英雄」という漢字表記を宛がう訳であるが、この『漢書』起源の語が中国においても、はたまた日本においても、そのまま人間を指し示す語であったことは見逃されてはならず、それはベートーヴェンの交響曲第3番(Sinfonia Eroica)の副題(『英雄』)においても、事情は同様である。

ところで、このように「英雄」という漢字表記に目を凝(こ)らすと、よく分かるけれども、もともと英雄の雄(音読→ユウ)とは鳥の「雌雄」から導き出されていて、これを訓読すれば「おす」となるし、逆に「めす」は雌(音読→シ)となる次第。したがって、これが鳥以外の動物や、場合によっては植物(→雄蕊・雌蕊)に宛がわれても、そこでは端的に雄性の生殖器官(=精巣+輸精管+前立腺+陰茎etc.)を所有していることが、その必要条件であった訳である。であるから、そこから「英雌」という言い回しが、産み出されるはずはなく、それどころか、やがて「雌雄」は決する(!)べきものとなり、そのまま優劣や勝敗と重ね合わされ、雄(おす)であることが「優」や「勝」を意味するのに対して、雌(めす)であることは「劣」や「敗」として、位置づけられることになる。

分かりやすい例を挙げれば、あくまで雄(おす)が「雄飛」(=支配)するべき存在であるのに比べて、むしろ雌(めす)は「雌伏」(=服従)するべき存在であった。――と書き継ぐと、おそらく君は相当に時代遅れの、古臭い考え方を僕が持ち出しているかのように感じて、たちまち顔を顰(しか)めたり、眉を顰(ひそ)めたりするのかも知れないね。でも、このような考え方は実は、今でも君や僕の周囲に歴然と蔓延(はびこ)り続けている考え方であって、その気になって眺めれば、やれ男女平等だ、やれ共同参画だと、このような事態が現実には、いまだ到達目標にしか過ぎないことも、よく分かるであろうし、何よりも先刻来、君が顔を顰(しか)めたり、眉を顰(ひそ)めたりしていることすら、それは顰(ひそみ)に倣(なら)えば女性固有の、美しさと見なされてきた始末。

その意味において、僕は今回も性懲(しょうこ)りもなく、君に鶴屋南北(つるや・なんぼく)の『東海道四谷怪談』の話を始めるけれども、そもそも、この物語で正真正銘の「ヒロイン」に宛がわれている、お岩は文字どおりに「雌伏」した存在であり、彼女は父親の四谷左門(よつや・さもん)の仇(あだ)を討つために......その当の、敵(かたき)であるとも知らず、かつての夫の民谷伊右衛門(たみや・いえもん)と縒(よ=撚)りを戻し、子供を産み、産後の肥立(ひだ)ちの悪いまま、ほとんど臥(ふ)せったままの窮状に陥っている。また、亭主の方も仕官が叶わず、今風に言えば、再就職の目処(めど)が立たず、わずかな収入を唐傘(からかさ)張りに頼り、極貧の浪人生活に堪えているのであったから、そのこと自体、気の毒と言えば気の毒な、新婚夫婦であった訳である。

ところが、そこに降って湧いたかのように、近隣に住む権勢家、伊藤喜兵衛(いとう・きへえ)の孫娘、お梅が民谷伊右衛門に懸想(けそう)をし、恋煩いの末、焦がれ死なんとするほどの熱の入れ様。この状況を第三者の目で、そのまま冷静に眺めれば、おそらく民谷伊右衛門の選択や決断は、それ自体が罪と言うよりも、むしろ運の悪さ(bad luck)とでも評した方が、君や僕は納得が行くのではなかろうか。ただし、どうやら民谷伊右衛門の場合は、それを自分自身の運の好さ(good luck)と勘違いをした節が強く、そのような節操の無さが彼に、罪を重ねさせることにもなるのであろうし、この点はヒロインの、お岩の秘匿された素顔にも、あてはまる事態でありえたはず。――「あなたがたの中で罪のない者が、まず〔、〕この女に石を投げつけるがよい」(『ヨハネによる福音書』)

 

なんぼ貧しい暮らしをしても、武士の娘が、あらう事か......ト、サア、表向きでは言はねばならぬが、そこを言はれぬ私(わし)が身も、有り様は其方(そなた)の推量の通り、いやしい業(わざ)を勤めるも、年寄った父(とと)さんが、貧苦の上に私らへ気がね。〔中略〕そこで私が思ふには、内の事さへ相応に、手廻ったなら自(おの)づから、父さんの御苦労も止むであらうと、思ひ付いた辻君(つじぎみ)も、肌は触れねど訳(わけ)言ふて、やっぱり袖乞(そでごひ)同然な、今の世渡り。

 

言い換えれば、このようにして鶴屋南北の『東海道四谷怪談』では、誰一人として罪人ではなく、それにも拘らず、誰しもが罪人であるような......恐るべき世界が表現されていることになる。とは言っても、そのような世界が恐るべき姿を呈するのは、まさしく世界が世界(lokadhatu→梵語)として、そこに時間軸(=過去・現在・未来)と空間軸(=東西南北・上下左右)を絡ませながら、この物語の舞台(「東海道」)のように、おぞましい罪人を次々と出現させる瞬間であり、その瞬間に立ち会った折に、はじめて君や僕は今まで、決して罪人とは思っていなかった人間が、いつでも容易に罪人となり、さながら悪の権化のように振る舞い出すのを目撃し、経験するのであって、裏を返せば、そのような瞬間は何時、何処においても、君や僕の日常生活の中に潜み、忍んでいるのであった。

その点、この物語に即して言えば、お岩が最終的に「ヒロイン」となり、この物語の最後を、おどろおどろしい形で仕切り、締め括る役目を引き受けるに至ったのも、それは彼女が民谷伊右衛門を始めとする周囲の人間を介して、お梅であれ伊藤喜兵衛であれ、直助権兵衛(なおすけ・ごんべえ)であれ按摩宅悦(あんま・たくえつ)であれ、言ってみれば、彼らに寄って集(たか)って侮辱され、蹂躙(ジュウリン)された挙句(あげく=揚句)とうとう怨霊となり、その怨(うら=恨)みを晴らす側に身を転じたからに他ならない。すなわち、このような転身(Metamorphose→メタモルフォーゼ)こそが彼女を、字義どおりの「ヒロイン」(半神半人)に仕立て上げた理由であり、根拠であって、それが仮に抜け落ちていたら、彼女は単に一人の、憐れむべき女にしか過ぎなかったであろう。

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