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勉強について ――「教養」の来た道(290) 天野雅郎

勉強という語が、とても好きである。と書き出すと、まさか君は目が点になったり、目を白黒させたりは、しないであろうが、それでも多少の驚きは感じるかも知れないし、ことによると、いやなことを言う奴だとか、あきれた神経の持ち主だとか、反発を催しかねないから、おそろしい。と言ったのは、かつて僕自身も小学生や中学生の時分、当然のごとく勉強が好きではなかったし、おそらく高校生の頃は、いちばん勉強が嫌(いや)で、厭(いや)で、要は勉強に対して、否(いな→いや→いえ)の反応を示すことにおいては人後に落ちなかったはずであるから、このようにして平然と「勉強好き」の自分をアピールすることになろうとは、それだけでも充分、年を取り、それ相応の生活や人生を繰り返すことには価値があるらしい、と昨今、感慨に耽(ふけ=更・深・老)ることも度々。

ちなみに、このようにして大の「勉強嫌い」であった僕が、いつの間にやら不思議なことに、その反対の「勉強好き」へと身を転じることが出来たのは、きっと大学に入学し、大学生になってからのことに違いない。その点、大袈裟(おおげさ=巨大な法衣!)を着て、めかしこんで想い起こすと、なんとも大学(university)は自由な――文字どおりに自(みずか)ら、我が身(み)に応じて、自(おの=己)ずから、各々(おのおの)の趣味や趣向を踏まえ、その趣(おもむ=面向)きの由(よ=因・縁・依・拠・寄......)る所に進み、これを気の済むまで、朝から晩まで、早暁から深夜まで、ひたすら追い求めても構わない、という不文律(unwritten law)や雰囲気(atmosphere=大気圏)が存在している場所なのであった。昨今の大学とは、ずいぶん違う話となり、恐縮であるけれども。

そのような雰囲気の中で、僕の「勉強嫌い」は癒(いや)された、と言おうか、ごく普通に人間に、人間であれば備わっているはずの、自然な知識欲や好奇心(アリストテレス『形而上学』→「すべての者は、生まれながらに、知ることを欲する」)が芽生え、目覚めたのである。その限りにおいて、さしあたり「勉強好き」であることは人間の、あたりまえの状態である、とも見なしうる訳であって、そこから「勉強嫌い」に陥る方が、かなり変な状態でもあり、もし君が、そのような状態に置かれているとしたら、君は躍起になって、その状態を産み出している、いちばん根っ子にあるものを探し出し、それを断ち切るべく、精魂を傾ける必要があるのではなかろうか。そうしないと、おそらく君は生涯、そのことを悔(くや→苦病?)み、長患いをすることにもなりかねないから、ご用心。

そして、そこから先は、もっぱら習慣(habit)の問題である。すなわち、君が毎日、あたりまえに服を着たり、ご飯を食べる際、茶碗や箸を手に持ったり(habere→habitus)しているように、ごく自然に――とは言っても、そのこと自体は決して、自然の営みではなく、むしろ人間に固有の、人間だけの特性(characteristic)であり、特権(privilege)なのであるけれども、ともあれ、このようにして君の、まさしく「衣食住」を始めとする生活の中で、生活に即して、君は規則正しい「勉強好き」の状態を維持すれば、それで充分である。そうすれば、放っておいても君は、いっぱしの「勉強好き」になれるし、どんどん「勉強好き」の状態を、高めたり、強めたりすることも、君次第(=自由自在)なのである。これまた、あのアリストテレスが『二コマコス倫理学』で述べていたように。

でも、このようにして「勉強好き」の姿勢を保ち、これを崩さないために、いちばん必要なのは、もっと「勉強好き」の範囲を、どんどん押し広げることではないのか知らん、と僕は考えていて、それを端的に、僕は「教養」という語で表現している次第。なぜなら、このような「勉強好き」とは別に、もう一方には特定の何かを勉強し、勉強し続ける、その類(たぐい)の「勉強好き」も君や僕の周囲には、けっこう見掛けるし、このような「勉強好き」の方が圧倒的に、その数は多いのではなかろうか。なにしろ、このような勉強のことを大学では、いわゆる専門と称していて、君や僕が一般的に研究と呼んでいるのも、このような勉強を指し示していたはず。例えば、ドイツ語で研究のことを「フォルシュング」(Forschung)と言い、それは端的に、何かを深く掘り下げる行為であったように。

もちろん、このような勉強(すなわち、研究)も大切であろうし、そもそも君や僕が大学に入学する気を起こし、そこに当面の目的が生じるのであれば、それは第一に、このような専門の研究をして、そのことを通じ、君や僕が何らかの資格を手に入れ、それを何らかの職業に、結び付けることであるに違いない。が、よく考えてみれば、そのような職業に必ず、君や僕が就(つ)けるとは限らないし、ひょっとすると、そのような職業を選択したこと自体、君や僕の錯誤であったり、いわゆる若気の至りであったりすることすら、おうおうにして生じうる事態であろう。また、仮に君や僕が運好く、その職業に就けたとしても、君や僕は延々と、その仕事を続ける訳ではないし、いつでも君や僕には転職や失職や、最終的には退職(=定年)の時期が待ち構えているのである。遅かれ、早かれ。

さて、このような事態を慮(おもんばか=思量)ると、はたして君や僕が大学で、ある特定の分野の「勉強好き」(=研究好き)になり、それ以外の領域の「勉強好き」にはならず、それどころか、むしろ「勉強嫌い」になってしまうのは、それほど(まったく?)賢明な選択ではないことが、わかってくるのではあるまいか。まあ、僕自身は誰かが楽観的(optimistic=最善的)であることに対して、とても共感できるし、僕自身が生まれて以来、悲観的(pessimistic=最悪的)な頭の使い方をした例(ためし)は、数えるほどしかないから、せいぜい君も大学生の間に、好きなことを好きなようにしたら、よい、とは思っているのであるけれども、やはり寄る年波には勝てず、ついつい自分の幸(しあわ=為合)せばかりか、君の幸せや、より多くの人の幸せをも願わざるをえないのである。

ああ、もっと大学生の折に興味を持って、政治学(politics=「市政」学)でも経済学(economics=「家政」学)でも、勉強していれば、より広範囲な幸福論の一つも語れたのに......と、このような時には反省も、しきりに口を衝(つ)いて出ざるをえないが、それでも勉強は、幾つになっても始められるし、続けられるし、このこと自体が「勉強好き」の、わかりやすい特徴でもあったろう。その意味において、もともと勉強は古代の中国の『礼記』に姿を見せて以来、君や僕が自分に勉(つと)めて、何かを強(し)いる作業でもあれば、その作業を強いて、自分に勉める行為でもあって、そのような行為の辿り着く先に、きっと人間の幸福は待ち構えている、と三度(みたび)アリストテレスは宣(のたま)うに違いない。昨今の大学が、いくら彼の言葉に耳を傾けなくは、なっていても。

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