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知性について ――「教養」の来た道(291) 天野雅郎

最近、知性という語の意味を、考え直す機会が多い。理由は簡単で、知性(チセイ)は遅性(チセイ)だ、と僕自身が、ようやく気づき始めたからに他ならない。――と書き出すと、また僕の仕様(しよう→しょう→性)もない駄洒落の御出座(おでまし)かと、なかば君は呆れ顔であろうが、そこは駄洒落も洒落(しゃれ→おしゃれ)の内と、ご容赦を願い、ふたたび繰り返そう。知性は遅性だ。言い換えれば、知性は逆に、その速度(スピード)によって、評価されるのではなく、むしろ、そのような速成や即成や、あるいは促成と称される、さまざまな種類の速性(ソクセイ)に対して、ストップを掛け、立ち止まらせ、君や僕の頭や心を、考え直したり、感じ直したり、行ない直したりさせるのが、そもそも知性と呼ばれる、人間の能力や特権や、その責任であったのでは、なかろうか。

と、このようなことを思うのは、やはり僕が年を取り、いわゆる老人の仲間入りを果たしたからに、違いないのであるけれども、それと並んで、それよりも......はるかに興味深いのは、みずからの周囲に反対に、なんと多くの速性を求める老人たちが犇(ひし=牛+牛+牛)めき合っていることか、という発見(discovery=覆面剥奪)であり、どうやら人間は齢(よわい→よはひ→世延)を重ねれば、重ねるほど、どんどん性急になり、せっかち(急勝?)になっていくのでもあるらしい。であるから、ひょっとして君が若く、さしあたり青春を謳歌する側にいるとしても、意外や意外、君が仮に短気な、せっかち者であるとしたら、君には充分に老人の資格が備わっているのであり、お出(い)で、お出で、と老(おい)の神様は、しっかり君を招き寄せている公算が大であるから、ご留意を。

ところで、このようにして速性の、対極に位置する遅性について、それが知性の特徴であり、固有の性格である、と先刻来、僕は論じているのであるが、はたして君は知性という語を、身近に感じているのか知らん。なぜなら、かく言う僕自身も振り返ると、それほど知性という語を日常、多用している訳ではなく、せいぜい人類(=現生人類)が自分たちのことを、勝手に「知性人」(ホモ・サピエンス)と名付けている、幼稚な用例が想起される程度である。まあ、その名付け親が植物学者の、あのリンネ(Carl von Linné)であることは、いささか僕は気になるが、ともあれ――その「知性人」が「知性を欠く」ことは、まかりならぬことのようであり、ひいては「知性がある」ことばかりか「知性を磨く」ことさえ、人類の必須の課題であり、お勤めでもあるかのような気配なのである。

でも、このようにして「知性を磨く」ことで、いったい知性は、それを磨く前と磨いた後で、どのように違う、異なった状態に辿り着くことが叶うのであろう。おそらく、それを「知性が高い」とか「知性が低い」とか、このような言い回しで表現することは、まず不可能なのではあるまいか。なにしろ、そのような言い回しをすること自体が、そもそも「知性を磨く」ことで身に付いた、知性の姿ではないであろうし、それどころか「品性を欠く」ことにすら、通じかねない始末。また、これを「深い」とか「浅い」とか、さらには「厚い」とか「薄い」とか、このように表現することにも無理がある。要するに、このような二分法(dichotomy=両断論)によっては、とうてい摑み切れない何かが、もともと知性には隠され、潜んでいることを、君や僕は弁(わきま)えなくてはならないはず。

その点で、これまで知性という語が日本語で、どのような歴史を経て、今に至る語であるのかを、君や僕は知っておくべきであろう。と......このように切り出すことが出来るのであれば、いたって話は容易である。が、例えば『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「知性」の項を引くと、そこには『普通述語語彙』(明治三十八年→1905年)が典拠に挙げられていて、これは『普通熟語語彙』の、おそらく間違いであろうけれども、この語が高々、110年余りの歴史しか所有しない、外来語(すなわち、翻訳語)であることが分かる。そこで、ついでに同時期の『英獨佛和・哲學字彙』(明治四十五年→1912年)を調べてみると、たしかに「知」や「知能」や「智力」や、これに加えて「知識」や「智慧」や「叡智」は存在していても、まったく「知性」という語自体は、その影も形も、ない。

ちなみに、ここで「知」や「知能」や「智力」と訳されているのは、英語の intellect であり、これに対して「知識」はラテン語の intellectus と英語の knowledge に使われ、これに対して「智慧」や「叡智」が宛がわれているのは、英語の intelligence と wisdom である。要するに、このようにして顧みるだけでも、君や僕が目下、一般に「知性」の原語として捉えている、英語の intellect も intelligence も、いまだ「知性」の訳語を用いられるには至っておらず、これが「普通述語」や「普通熟語」の、そのまま語彙(ヴォキャブラリー)の地位を手に入れるのは、かなり時代が下ってからのことであって、それは昨今でも、なお実現されていない事態である、と評しても過言ではない。論より証拠、君や僕は「知性」に対して、どこかヨソヨソしい関係を、続けているのではなかろうか。

とは言っても、そのような関係が最近、俄(にわか)にヨソヨソしいとばかりは、呑気(のんき=暖気)に構えてもいられない状況が押し寄せていて、その最たるものは、あの人工知能(artificial intelligence→AI)であるけれども、これが幸か不幸か、人工知能であり、人工知性ではないことに、僕は不安と紙一重の安心を催さないではない。でも、はるかに古代のギリシア人が、この語の出発点にヌース(nous)を置き、これがローマ人を介して、ラテン語の intellectus となり、さらに英語の intellect や intelligence を産み出していることを想い起こせば、あまりウカウカしているのも危険だな、と感じずにはいられない。それと言うのも、驚くべきことに「知性」とは、君や僕が神や、神の創造した世界と通じ合い、そこで魂の不死を手に入れるための能力とされてきたからである。

先日、このようなことを考えていたら、たまたま木田元(きだ・げん)の『新人生論ノート』(2005年、集英社新書)を拾い読みする機会があり、そこに「理性について」と題された章が含まれていて、実は今回、僕が君に話を聴いて貰(もら)った、この「知性について」とも重なる部分が多いので、その一節を最後に君に紹介して、次回への橋渡しとしたい。僕に言わせれば、このようにして「知性」であれ「理性」であれ、はたまた「イデア」であれ、いくら頑張っても「見えないものは見えない」し、いつまで経っても――と、断定できるのかは定かでないし、それよりも何よりも、君や僕が「われわれ日本人」の一員なのかどうかすら、心もとない限りであるが、それでも「分からないことは分からないと認めること」が、きっと「知性」の原点であることだけは、間違いがあるまい。

 

だから、なにも〔、〕われわれ日本人が〔、〕そんな〈理性〉をもちあわせているふりなど〔、〕する必要はなかったのである。〔中略〕われわれが別に無理して、見えもしないのに見えるふりをしてみせなくても〔、〕よかったのである。徹頭徹尾〈自然〉のなかで〔、〕ものを考える〔、〕われわれ日本人にとって、そんな超自然的原理が思考の視野に入ってくるはずはない。〈イデア〉〔idea=見られるもの〕が見えなくても当然なのだ。なんだか日本の哲学研究者たちは、永いあいだムダなことばかりしてきたように思えてならない。見えないものは見えない、分からないことは分からないと認めることこそが、われわれ自身の思索の第一歩だったはずなのに。

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