ホームメッセージ健康について ――「教養」の来た道(292) 天野雅郎

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健康について ――「教養」の来た道(292) 天野雅郎

木田元(きだ・げん)の『新人生論ノート』(2005年、集英社新書)を拾い読みした序(ついで→つぎて→継手?)に、と言っては語弊があるが、今度は御本家の、三木清(みき・きよし)の『人生論ノート』のページを、また僕は開き直している。この本自体は、昭和十六年(1941年)に出版されたものであるし、その最初の、冒頭のノート(死について)が雑誌(『文學界』)に連載され始めるのは、その三年前(昭和十三年→1938年)のことであるから、これは今を遡る、ちょうど80年前の出来事になる。長い、と言えば長いが、それほど長い時間が経ってしまった訳ではない、と言えば......これまた確かに、そうであって、おそらく君や僕が一般に「古典」と呼んでいる書物には、特に書物に限った話ではないけれども、このような不思議な、相対的な遠近感が伴うものでもあるらしい。

事実、僕が最初に『人生論ノート』のページを開いたのは、おそらく大学生になって、まだ間もない頃のことであったように記憶しているが、その当時は三木清の文庫本が、この『人生論ノート』(新潮文庫)にしても『哲学ノート』(新潮文庫)にしても、あるいは『哲学と人生』(講談社学術文庫)にしても『読書と人生』(角川文庫)にしても、たやすく新本で購入することが出来たし、今とは違い、このような文庫本が目から火が出るような......という比喩自体が適切なのか、どうなのか、あやしいけれども、とにかく文庫本が文庫本(paperback→pocket edition)とは称しえない、信じ難い高値を付けられる惨状は、いまだ生じておらず、それゆえ、このようにして頭を何かに打ち付け、眼前が真っ暗になり、その闇の中を、あたかも光が飛び交うような衝撃は、受けずに済んだ次第。

ちなみに、上に記しておいた文庫本の中で、いちばんページ数も多く、当然、値段も高かったのは『哲学と人生』であるが、これとても547ページで、定価は340円であり、いわずもがなの消費税すら、かからない。まあ、このような時代であったからこそ、かなり金欠状態の大学生であった僕も、この本を買うことが叶った訳であり、その点、昨今の大学生が本を読まない理由の一つには、素朴に推し測れば、このような物価の高騰も影響しているのではないか知らん、と僕は考えて(危ぶんで?)いて、それを一方的に昨今の大学生の「本嫌い」や「本離れ」の所為(せい)にする気はないのであるが、さて君は、いかがであろう。なお、このようして本が、どんどん大学生の手の届かないものになったのは、言うまでもなく、例の「オイル・ショック」(=和製英語)以降のことであった。

もちろん、この出来事は高校生の折、君も日本史の教科書あたりで習ったであろう、あの「石油危機」のことであるけれども、これは第一次が昭和四十九年(1974年)であったのに対して、第二次が昭和五十四年(1979年)の出来事であったから、もう30年も40年も昔の話になる。でも、このような出来事は常に、いつも金欠状態の大学生の懐(ふところ)をこそ直撃するものであることを、君や僕は忘れてはならないに違いない。――論より証拠、三木清の文庫本も1980年代に入ると、ちょうど1980年(昭和五十五年)に岩波文庫から『パスカルにおける人間の研究』が刊行されたのを最後に、それ以降、あらたに文庫本という形で三木清が御目見(おめみえ)をする機会は、まったく消え去り、それが実に40年近くを隔てて、現在、講談社文芸文庫から出版され直しているのでもあった。

一応、刊行順に並べておくと、それは『三木清教養論集』と『三木清大学論集』と『三木清文芸批評集』である。残念ながら、いずれも1,500円を上回るので、これを文庫本と評するには、やはり僕のごとき老頭児(ロートル)には抵抗があり、まさしく僕の、年老いた頭(心?)が痛むのであるが、それでも君が戦前(+戦後?)の日本を代表する、教養論や大学論を読む意志があり、その上で、きっと今後も、さらに重要性を増すに違いない、三木清の「文化哲学」や「生活哲学」や、あるいは「科学哲学」や「技術哲学」に関心があるのであれば、ぜひともページを捲(めく)って欲しい限りである。が、その気になれば古本や、それこそ図書館(天野図書館?)にでも行けば、そこに必ず、かつて岩波書店から1960年代と1980年代に出版された『三木清全集』は置かれているであろう。

さて、いささか長い前置きとはなったが、このような経緯で今回、僕は三木清の『人生論ノート』のページを......いったい何度目になるであろう、あえて今回は新潮文庫を手に取り、開き直している。もっとも、このようにして何度も何度も、そのページを開いてはいても、その時々の印象や感想はマチマチであり、下手をすると、ほとんどバラバラであったり、まったくチグハグであったりもするけれども、それが単に僕の頭の悪さや、要は感受性や理解力の不足に起因するものではあっても、それと並んで、やはり君や僕が一般に「古典」として位置づけている書物には、このような繰り返しの読書に堪える要素が含まれていることも事実であって、裏を返せば、そのような反芻に繋がらない本は、そもそも「古典」の名には値しない本である、と断言することも許されるのではなかろうか。

その意味において、僕が今回、特に興味を持ったのは「健康について」の章であり、これは多分、たまたま数日前に僕が、ハンス=ゲオルク・ガダマー(Hans-Georg Gadamer)の『健康の神秘』(2006年、法政大学出版局)を、これまた再読した影響でもあったが、すでに今から80年ばかりも昔に、三木清が君や僕の健康の問題を「今日の最大の問題の一つ」として捉えていたことは、ある種の驚きを催さざるをえないであろう。――「近代主義の行き着いたところは人格の分解であるといわれる。しかるに〔、〕それと共に重要な出来事は、健康の観念が同じように分裂してしまったということである。現代人は〔、〕もはや健康の完全なイメージを持たない。そこに現代人の不幸の大きな原因がある。如何にして健康の完全なイメージを取り戻すか、これが今日の最大の問題の一つである」。

なぜなら、そもそも健康とは「何が自分の為(ため)になり、何が自分の害になるか、の自分自身の観察」であり、その点で「健康は各自のものであるという、単純な、単純な故に敬虔(けいけん)な〔、〕とさえいい得る真理」に支えられている。だから、君や僕が誰かの代わりに健康になることは出来ないし、その誰かが、君や僕の代わりに健康になることも叶わない。「健康は全く銘々のものである。そして〔、〕まさにその点において平等のものである」......でも、このような健康の平等性や、言い換えれば「個性」を、君や僕は現代人(ひいては、近代人)の一人として、どこまで理解しているのであろう。理解しているのであれば、よもや君や僕は病院で、しょっちゅう検査を受け、その数値に一喜一憂し、健康(裏を返せば、病気)の質と量を取り違えることも、ないはずである。

 

健康の問題は人間的自然の問題である。というのは、それは単なる身体の問題ではないということである。健康には身体の体操と共に精神の体操が必要である。〔中略〕自然に従え〔、〕というのが健康法の公理である。必要なのは、この言葉の意味を形而上学的な深みにおいて理解することである。さしあたり〔、〕この自然は一般的なものでなくて個別的なもの、また自己形成的なものである。〔中略〕自然哲学〔、〕或いは自然形而上学が失われたということが、この時代に〔、〕かくも健康が失われている原因である。そして〔、〕それがまた〔、〕この科学的時代に、病気に関して〔、〕かくも多くの迷信が存在する理由である。

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