ホームメッセージ革新について ――「教養」の来た道(294) 天野雅郎

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革新について ――「教養」の来た道(294) 天野雅郎

今回は再度、フランシス・ベーコンの『随想集』の話である。と書き出して、いささか僕は『随想集』という名の、この本の表題自体に立ち止まってしまっている。理由は簡単で、この「随想」という語が例えば、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈のように、そもそも「物事に接して受けた、そのままの感じ。あれこれと折にふれて思う事柄。また、それを書きとめた文章。随感」のことであるならば、はたして「随想」という語はフランシス・ベーコンの、この本の原題(Essays)に相応しいのか知らん、と少しだけ、ためらいに近い思いを抱いているからである。また、その用例に『日本国語大辞典』は、戦前では長与善郎(ながよ・よしろう)を、戦後では三島由紀夫(みしま・ゆきお)を、それぞれ挙げているが、どちらも20世紀の用例であることに変わりはない。

言い換えれば、この本に従来、宛がわれてきた『随筆集』という名は、それが「特定の形式を持たず、見聞、経験、感想などを筆にまかせて書きしるした文章」であり、なおかつ、さらに「日本の古典では『枕草子』『徒然草』が有名。西洋では小論文、時評なども含めてエッセーと呼ばれるが、日本のものは〔、〕より断片的である。漫筆」と、これまた『日本国語大辞典』が説明している通り、こちらの方がフランシス・ベーコンの本の表題としては、そぐわしいのではなかろうか、と考え直している次第。おまけに、その語誌の中で同辞典は、まず「日本では、一五世紀の一条兼良〔いちじょう・かねら〕『東斎随筆』が「随筆」の書名を持つ最初である」ことも述べていて、その内容を別にすれば、この「随筆」という語自体は15世紀(=室町時代)に遡りうるものであることが分かる。

だから......と君が冷たい顔を、しないことを僕は念じているけれども、やはり言葉には言葉に応じた、それぞれの歴史や背景や――要は、その文脈(コンテクスト)や語感(ニュアンス=陰影)が隠れ、潜んでいるのであり、それを無視して、その時々の流行(ファッション)を追い回し始めると、それこそシェイクスピアが fashionmonger(『ロミオとジュリエット』)という新語まで作って、君や僕が「ファッショナブル」であろうとしたり、し過ぎたりすることを茶化し、批判した事態にまで立ち返ってしまうであろう。その点で、さらに「随筆」という語は江戸時代以降も、そこに豊かな日本語の広がりを、畳み込んでいるのであったから、さしあたり、このフランシス・ベーコンの『随想集』も『随筆集』で、よろしいのでは、と僕は感じているけれども、さて君は、いかがであろう。

ちなみに、僕が前回、君に紹介した『三四郎』の中で、夏目漱石(なつめ・そうせき)は「ベーコンの論文集」という言い方をしていたのであるが、これは当時、実は「論文」という語が英語の「エッセー」(essay)の翻訳語として、普通に罷(まか)り通っていたからに他ならない。論より証拠、明治十七年(1884年)版の『改訂増補・哲學字彙』においても、また、明治四十五年(1912年)版の『英獨佛和・哲學字彙』においても、すべて「エッセー」は「論文」と置き換えられている。裏を返せば、この頃までの「論文」は、目下、君や僕が「学術的な研究の業績や結果を書き記した文」(『日本国語大辞典』)という形で、いかにも世知辛(せちがら)い物言いをする前の、中国渡来の「論文」の原義が、いまだに生き残り、保たれ続けていたことの証(あかし)でもあったに違いない。

さて、このようにして振り返ると、まさしく昨今、大流行の「革新」(カタカナ表記→イノベーション)という語や、あるいは「改革」や「変革」という言い回しには、君や僕の気の付かない所で......と言うよりも、むしろ気が付かないようにして、ある特定の物の考え方や人の捉え方が、あらかじめ前提とされていたり、ひそかに忍び込まされていたりするのであるから、ご留意を。と言う訳で、ここでも参考までに「イノベーション」の項を『日本国語大辞典』で引いておくと、そこには「これまでとは異なった新しい発展。刷新。技術革新。新機軸」という語釈の後、星野芳郎(ほしの・よしろう)の『技術革新』の用例が、意味深長に挙げられている。――「シュムペーターのいうイノベーションは、『経済白書』以前は、多くは「革新」とか「新機軸」とかいうように訳されていた」。

と、ここからシュム(→シュン)ペーター(Joseph Alois Schumpeter)の側に、ただちに話題を切り替えるような芸当は、幸か不幸か、僕には出来ないので、この場は「革新」(innovation→イノヴェーション)という語をシュムペーターよりも、はるか280年以上も昔に使っていた、フランシス・ベーコンの「革新について」(of innovations)の章を君の一覧に供したい。と書き継ぐと、ひょっとして君はイノヴェーションという語が、すでに15世紀(1440年)には誕生していたことや、この語をシェイクスピア(『ヘンリー四世』)も、また、このようにしてフランシス・ベーコンも用い、それどころか、実は日本でも前掲の、例えば『改訂増補・哲學字彙』にも『英獨佛和・哲學字彙』にも、この語は逸早く、登場済みの語であることを、まったく、寝耳に水であったのかも知れないね。

もっとも、この語は当初、まず「新設」という形で、やがて「刷新」という形で、置き換えられることになるのであるが。ともあれ、このようにして言葉には......と僕は再度、繰り返すけれども、それぞれの言葉の成り立ちや来歴があるのであって、それを知らないと、あたかも君や僕は流行語(vogue word)が、そのまま常に新語(new word)であると思い込んでしまったり、決め付けてしまったり、しかねないし、まさか数十年前に、それどころか数百年前に、その語が昔々、とっくの昔に姿を見せており、その意味において、それは歴とした古語(archaic word)であることさえ、すっかり見逃してしまうのではなかろうか。そうなると、君や僕は単純に、いたって単純に、みずからの頭や心を数年単位で、せいぜい十数年単位で、むなしく空回りさせることが許されているだけであろう。

思い込みは、こわい。――事実、僕が前回、君に報告したように、ごく普通にフランシス・ベーコンは、哲学史上においても科学史上においても、その名の通りの「近代哲学」や「近代科学」の提唱者であり、定礎者であって、その点、彼が「革新について」のエッセーを物すのであれば、そこには当然、彼の進歩的で発展的な、まさしく革新的な見解が開陳されているに違いない、と君や僕は信じて、疑わないのではなかろうか。......思い込みは、こわい。もし彼が、このエッセーで当り前のごとく、そのような文言を並べ、連ねていたのであれば、おそらく彼は政治家としても、ほとんど出世をせず、鳴かず飛ばずの生涯を送ったであろうし、それよりも何よりも、彼は俗に言う「イギリス経験論」の哲学者として、きわめて幼稚な、子供さながらの発言しか、繰り返しえなかったであろう。

 

時が最大の革新者〔中略〕である。〔中略〕それゆえ、革新〔イノヴェーション〕をするには〔、〕時そのものの例に従うのがよいであろう。いかにも、時は大革新をするが、しかし静かに、そして徐々にするので、ほとんど気づかれない。〔中略〕国家においても、さし迫った必要がなければ、あるいは明らかな実益がなければ、〔革新の〕実験はしないほうがよい。また改革の必要が変化をもたらすようにし、変化への願望が改革を主張しないように、十分気をつけることである。〔中略〕「われわれは古い道に立って、あたりを見まわし、どれが〔、〕まっすぐな正しい道であるかを悟り、その道を歩む」(『エレミヤ書』)

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