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読書について ――「教養」の来た道(297) 天野雅郎

しばらく前から、アルトゥール・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer)の本を読み返している。想い起こせば、そこには僕が大学生や大学院生であった頃の、もう30年も40年も昔の記憶しか、呼び覚ましえないから、このような行為を「読み返し」という語で表現することが適切なのか、どうなのか、かなり判断に迷うけれども、とにかくショーペンハウアーのページを捲(めく)っていることは確かである。とは言っても、僕が目下、手に取っているのは尽(ことごと=悉)く、ショーペンハウアーではなく、ショーペンハウエルと表記された文庫本であって、ひょっとすると僕には、今でもショーペンハウアーではなく、ショーペンハウエルと書き換えた方が、なにやら落ち着きが生まれると言おうか、気が休まると言おうか、これだからロートル(中国語→老頭児)は困るのである。

以下、発行年順に並べてみると、まず昭和二十九年(1954年)の『哲学入門』を皮切りにして、これらは全部、石井正(いしい・ただし)訳の角川文庫であるが、昭和三十五年(1960年)の『自然について』と昭和四十一年(1966年)の『みずから考えること』を、僕は大学生の時分(昭和四十年代後半)から大学院生の時分(昭和五十年代前半)に掛けて、相次いで、出版され直した状態で購入している。なお、同文庫には同訳者の長男であった、石井立(いしい・りつ)訳の『女について』(昭和二十七年→1952年)と『自殺について』(昭和三十年→1955年)も含まれているが、残念ながら、僕が所持しているのは後者のみであり、前者は昭和三十二年(1957年)に人文書院から改訳版の出ていた、片山泰雄(かたやま・やすお)訳の『愛と生の苦悩』を通じて、その代役を果たした次第。

さて、このようにして振り返ってみると、ただちに君にも分かって貰(もら)えるであろうが、これ以外にも『幸福について』や『芸術について』が同文庫には収められていたし、これに岩波文庫版の『自殺について』や『読書について』や『知性について』を加えると、おそらく昭和二十年代の後半から昭和三十年代の中盤に発行された、ショーペンハウアーならぬ、ショーペンハウエルの文庫本は十指(すなわち、両手)を超えている。そして、それらが幸い、僕が大学生や大学院生であった当時は、いまだ廉価で購入することが叶った訳である。――それどころか、何と彼の母国のドイツを別にすれば、おそらく世界で唯一、その全集(白水社版『ショーペンハウアー全集』)も出版され、これが完結するに至ったのは、ちょうど僕が大学生の、いわゆるゼミ所属を決定する年でもあった。

おまけに、これに同じ年、中央公論社の「世界の名著」版で、彼の主著であった『意志と表象としての世界』(西尾幹二訳)が加わり、さらに金森誠也(かなもり・しげなり)訳の『存在と苦悩』も『孤独と人生』も、いずれも白水社版で入手可能であったので、いくら僕が昨今の一定数(相当数?)の大学生のごとく、信じ難い「本嫌い」や「本離れ」では(......~_~;)あったとしても、これではショーペンハウアーの本の一冊にも手を伸ばさない方が、よほどの奇人や変人の部類なのではなかろうか。ちなみに、僕が先刻、名前を挙げたばかりの、金森誠也は多分、僕が大学生から大学院生になった頃、授業を受けようと思えば受けられたはずなのであるけれども、困ったことに、なぜか僕の記憶の中からは、そのこと自体が抜け落ちているから、これも相当、不可解な話であるに違いない。

ところで、そのようなショーペンハウアーと言おうか、それともショーペンハウエルと言おうか、僕が今回、君に紹介したいのは、さしあたり彼の文庫本において、もっとも多くの読者を獲得したであろう、岩波文庫版の『読書について』である。ただし、いささか細かい点ではあるが、この『読書について』と、それから同文庫版の『自殺について』だけは、この哲学者の名がショウペンハウエルと表記されている。――と、このような穿鑿(センサク)を始めると、きっと君は何のことやら、訳が分からないであろうが、この二つの翻訳が共に、終戦直後の北海道大学で教鞭を執っていた、斎藤信治(さいとう・しんじ)と斎藤忍随(さいとう・にんずい)の手になるものであり、それが揃って、このショウペンハウエルという表記を用いていたことに、やはり僕は興味を催さざるをえない。

と言うよりも、それは僕個人にとって、興味どころか興奮とでも表現するしかない、胸の高鳴り(ドキドキ!)であり、ここで本当は、君に彼らの哲学者ぶりを、斎藤信治であればキェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)との、斎藤忍随であればプラトンとの、それぞれ繋がりにおいて、あれこれ熱弁を振るいたい所ではあるけれども、まあ、とりあえず君には後者の書いた、岩波新書の『プラトン』(1972年)と『知者たちの言葉・ソクラテス以前』(1976年)が現在でも、共に新本で購入できるから、これらを直接、君が手に取ってくれるのが先決であろう。また、この二人を取り巻く、当時の北海道大学の知的雰囲気の一端については、なによりも『読書について』の「あとがき」で、かなり個人的な逸脱(→「坂井尚夫先生」)を物ともせず、斎藤忍随が述べているから、ご一読を。

なお、この『読書について』の中には、あわせて三篇の小品(「思索」「著作と文体」「読書について」)が収められているが、これらは全て、ショーペンハウアーの『パレルガ・ウント・パラリポメナ』(Parerga und Paralipomena→『付録と補遺』)から抜き出されていて、それぞれ原題は „Selbstdenken"と „Über Schriftstellerei und Stil"と „Über Lesen und Bücher" であり、これを先刻来、君に紹介している、石井正訳の角川文庫(『みずから考えること』)では、そのまま「みずから考えること」と「著述と文体とについて」と「読書と書籍とについて」と、きちんと「と」を繰り返した日本語で置き換え、さらに「博識と学者とについて」と「言語と単語とについて」と「心理学的覚え書」の三篇も添え、計六篇で編集されている。定価は、値上がりをしても300円であった。

と言ったのは、例えば「オイル・ショック」(=石油危機)以前の段階で、いまだ昭和四十七年(1972年)版(第10版)の『自然について』の定価は、わずか100円に過ぎなかったからである。しつこいようでは......あるけれども、これが僕に言わせれば、そもそも「文庫本」の適正価格であり、これを目下、ショーペンハウアーの文庫本で入手可能な、岩波文庫版(『読書について』)を買い、消費税込みの691円を払ったり、あるいは光文社版(「古典新訳文庫」)に802円を払ったりするのは、わずか100ページ余りの文庫本の値段としては、やはり高価すぎるのではなかろうか。だから、どんどん昨今の大学生は本を読まなくなるし、その結果、ますます「みずから考える」ことを放棄した「マス」の一員へと、身を持ち崩していかざるをえないのであろう。石井正の「観測」の通りに。

 

本書は〔中略〕刊行以来、百何年か〔現時点→167年〕たっているが、いまだに新鮮な感銘をうける。いや、それどころか、まるで現代人のために〔、〕わざわざ用意されて書かれてあったというような錯覚をさえ起こさせるくらいである。〔改行〕「マス・コミュニケーション」という当代の流行語は、大資本をバックにした与論〔=世論〕形成機関の魔力の前には人間は〔、〕いかに弱いかという社会心理学的な視点から生まれたものであろうが、このような新語の生まれるにいたった現在、「みずから考える」ことは、その魔力にたいする人間的な唯一の武器であろう。〔中略〕といえば、まったく簡単で、はなはだ楽観的に聞こえるだろうか。いや、あるいは最も悲観的な観測かもしれないのである。人間は、あまりに「みずから考え」たがらないからだ。

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