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読書家について ――「教養」の来た道(298) 天野雅郎

僕の周囲を見回した限りでも、いわゆる読書家の数は多い。残念ながら、それが大学生の場合には例外だ、と言うだけの話である。――と書き始めて、ふと気になったので、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「読書家」の項を引いてみると、そこには「よく書物を読む人。また、学者をいう」という語釈に続いて、その用例には織田純一郎(おだ・じゅんいちろう→旧姓:丹羽)訳の『花柳春話』(明治十一年→1878年)が挙げられているから、どうやら「読書家」という語は近代以降になってから、あらたに考案された、明治時代の翻訳語(原語→reader)であったらしいことが分かり......なあんだ、まだ日本では「読書家」が存在するようになって140年程度か、と僕は幾分、拍子抜けのした思いで、この『日本国語大辞典』の不可解な説明文を眺(ながめ=長目)ている。

とは言っても、もともと大学生が世間一般の、いわゆる読書家に比べて、その読書量が劣っているのは、特段、昨今に固有の、異常な事態ではなく、それは日本に「大学生」という特権階級(!)が登場して以来、恒常的な事態であったろうし、そもそも、それほど現在の大学生は本を読まないのか知らん、と問い出すと、さて、いかがなものであろう。――要するに、このような問い掛けは現在の大学生が、まったく本そのものを読まなくなった、という事態を指し示しているのか、それとも、例えば僕の知らない所で、知らない形で、さまざまな本を現在の大学生は読んでいて、その情報が僕の耳に届かなかったり、そのような場に立ち会う機会が、もう僕のようなロートル(中国語→老頭児)には、なくなってしまったりしているのかで、ずいぶん話は違ったものになってくるはずである。

それに、そもそも本を読まないのは、現在の大学生に限ったことではなく、高校生だって中学生だって小学生だって、それほど多くの「本好き」が世の中に犇(ひしめ=牛+牛+牛)き合っているとは、とうてい僕には思えないし、せいぜい学校の授業や宿題や、あるいは読書感想文に応じて、むりやり本を読まされているのが実情であろう。また、逆に年齢が高くなれば......なったで、それだけで体の不調や不具合が生じるし、端的に目が悪くなったりして、それまでは結構、読んでいた本にも、あまり触手が動かなくなったり、長い間、同じ体勢を取り続けるのが面倒になったり、困難になったりすれば、そのために人が、本を読まなくなるのは当然であり、ごく自然なことでもありえたに違いないのである。その点を踏まえれば、人は段々、本を読まなくなるのが、あたりまえなのである。

言い換えれば、もともと本を読むことは、このようにして不自然(unnatural)なことであり、不自然きわまりないことであって、それが人に一定の、拘束(⇔自由)や苦痛(⇔快楽)を強いるものであることを、まず君や僕は弁(わきま)えておく必要がある。裏を返せば、そのような拘束や苦痛を物ともせず、これに挑み、励み、繰り返し繰り返し、その拘束や苦痛を我が身に課することで、そこから徐々に、その拘束を自由へと、その苦痛を快楽へと転化させ、突き詰めれば、これを錯覚し、愛好するための訓練が、まず「本を読む」という行為には求められていて、それが叶った時、世に言う「読書家」は誕生することになる。したがって、そのためには持続的に、このような行為を日常生活において反復し、これを習慣(habit)とする所まで持って行かなければ、仕様がない訳である。

であるから、もし現在の大学生が本当に、憂慮(!)するべき「本嫌い」や「本離れ」の状態に陥っているのであれば、彼ら、彼女らを単純に、その反対の「本好き」にするための方策は決まっていて、それは反復練習以外にはない。――と、ここまで話が来れば、後は明るい未来が開ける時まで、彼ら、彼女らが努力を積み重ねるだけのことである。そのように言えるのであれば、おそらく世間を賑わす、この手のニュース(ゴシップ?)も姿を消して、きれいに跡形もなくなるのであろうが、そうは問屋が、どうも卸(おろ)さないらしい。なぜなら、このような大学生の「本嫌い」や「本離れ」は、ことさら大学生になって、芽を吹いたのではなく、そのルーツは高校生にも中学生にも小学生にも、それどころか、それ以前の段階にすら、深く根を下し、根を張るものであったからである。

その意味において、このような「好き嫌い」(likes and dislikes)を産み出し、育むための......はなはだ根深い「選別」(selection=淘汰)の仕組(システム)が、君や僕の周囲には潜み、隠されていることを、やはり見逃してはならないであろう。すなわち、君や僕が普段、何らかの情報を入手したり、知識を獲得したりする折にも、それだけで、そこには予(あらかじ)め、すでに越え難い、どうしようもない格差や落差が社会全体に行き渡り、はびこっていて、そこから現在の大学生は、ほとんど抗(あらが)う機会や切っ掛けや、まさしくチャンスを与えられることもなく、小学生の時も中学生の時も高校生の時も、ひたすら「本嫌い」や「本離れ」の状態に留まり、すでに大学生になった頃には、その「本嫌い」や「本離れ」は手の施しようのない、ターミナルな状態に至っている。

そして、それが将来、就職後の賃金差となって現(あらわ=露+顕)れるのであれば、これは君や僕が誰かに向かって、どこかに対して、文句の一つも言わないことには収まりの付かない話なのではあるまいか。――でも、それを果たして、いったい誰に向かって、どこに対して、君や僕は訴えるべきなのであろう。と考え出すと、とたんに君や僕は路頭に迷うことにもなりかねない。が、僕に言わせれば、そのような苦境に立ち向かうためにこそ、そもそも読書という行為は存在しているし、必要とされているのであり、単に読書が何らかの情報を入手したり、知識を獲得したり、その結果、高給取りになり、贅沢な暮らしをするための準備であるとするならば、なんと読書とは下らない......しても、しなくても構わない、それどころか、しない方が人として、ましな行為なのではなかろうか。

と、このような事態を仮に、今から170年近くも前に、あのショーペンハウアーが指摘してくれているのだとしたら、それでも君は彼の『読書について』のページを捲(めく)ることに、ためらいの思いを抱くのか知らん。まあ、それならそれでも、いっこうに構わないけれども、要は「読書は思索の代用品にすぎない」と彼は言っているのであって、誰かのために、あるいは自分の就職や昇進のために、ついやされる読書ほど無駄なものはない、と述べているのがショーペンハウアーなのである。今回は、そのような彼の「思索」(Selbstdenken)の中から、まさしく「みずから考えること」を論じた冒頭部分を、石井正(いしい・ただし)訳の角川文庫版から抜き出しておく。多分、その方が昨今、本を読まないことで世間から袋叩きに遭っている、現在の大学生には読み易いであろうから。

 

蔵書の数が〔、〕きわめて豊富な図書館でも整頓されていないならば、ごく小さな、しかし〔、〕よく整頓された書庫ほどにも役に立たないのと同様に、非常に多くの知識をもっていても、それが自己の思考で〔、〕すっかり咀嚼(そしゃく)されていないならば、はるかに少ない知識でも〔、〕いくたびか〔、〕くりかえし考え抜かれたものにくらべると、その価値は著しく劣るでしょう。なにしろ、人は、自分の知っていることを、あらゆる方面から組み合わせてみたり、ひとつひとつの真理を他の〔、〕それぞれの真理と比較したりすることによってのみ、初めて自分自身の知識を完全に〔、〕わがものとし、また、その知識を〔、〕みずから活用できるようになるのですから。人は〔、〕ただ自分の知っていることだけを熟考してみることができます。それゆえ、人は〔、〕なにごとかを学ばなければなりません。とはいえ、人が知っているのは、やはり、みずから〔、〕すでに熟考を経(へ)たものだけにかぎられます。

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