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思想家について ――「教養」の来た道(299) 天野雅郎

読書という語や、その語によって指し示される行為が、とても古くから存在するものであることは、おそらく子供でも、小学生でも中学生でも高校生でも、きっと察しが付くに違いない。が、その際の読書が実際に、どのような時に、どのような場で、どのような人によって行なわれていたのかは、やはり大学生にでも、ならなければ、よく分からないであろうし、そのような具体的な読書像に興味を持つこと自体が、もはや児童や生徒とは違う、その名の通りの「学生」(student→study→studium→studere→骨を折る!)になったことの証(あかし)でもあったはずである。とは言っても、ごく普通に大学の図書館あたりで、あたりまえに明るい電灯の点る中、机と椅子と冷暖房完備で本のページを開いていては、このような疑問が昨今の大学生の頭に上る可能性も、低いのかも知れないが。

そこで、まず手始めに、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「読書」の項を引いてみると、この語が古代の中国(前漢)の『礼記』において、すでに用いられていて、それが私たちの国に持ち込まれたものであったことが記されている。そして、そのまま平安時代には「書物を読むこと」という意味でも、さらに「皇子または貴人の男児誕生後七日の間、産湯〔うぶゆ〕の儀に、湯殿〔ゆどの〕の外で漢籍を読むこと。明経・紀伝の博士〔=読書の博士〕が交替で当たり、『孝経』『史記』『礼記』などの〔、〕めでたい一節を読み上げること」という意味でも、使われていた次第。ちなみに、信じ難いことではあるけれども、この時以来、この「読書の儀」は現在に至るまで、いわゆる「鳴弦の儀」(=弦打の儀)と共に、そのまま宮廷儀礼として営まれ続けているのであった。

さて、このようにして振り返ると、ただ単に「読書」という語一つを取り上げるだけでも、そこには多様な、それぞれの時代の、それぞれの場所の、それぞれの人間の、さまざまな「読書」が存在していたことを、君は理解してくれているのではあるまいか。事実、僕が前回、報告を済ませておいたように、このような「読書」という行為から「読書家」という名の、特定の人間の性向や様態や、場合によっては職業(→学者)が導き出されるのは、はるかに時代が下って、どうやら明治時代以降のことらしく、その意味において、もともと「読書家」とは近代的(modern)な、近代人(modern)に特徴的な言い回しであったことにもなるであろうし、この点は君や僕が「読書家」という存在を考える際にも、ひょっとすると見逃してはならない、はなはだ重要な視点であったのではなかろうか。

と、このような事態を念頭に置きつつ、僕は前回の「読書家」に引き続いて、今回は君に、さらに「思想家」の話をしようか知らん――と再度、ショーペンハウアーの『読書について』(岩波文庫)の中から、その冒頭の「思索」(原題:Selbstdenken)の一章を読み返している所であるが、これが角川文庫の『みずから考えること』では、そのまま「みずから考えること」と置き換えられていて、この双方を読み比べながら......やれやれ、どちらを今回はテキストにしたものかと、ある種、贅沢な悩みに囚われている。なにしろ、例えば次のごとき、この一章の末尾の一節で、ショーペンハウアーが「思想家」の何たるかを、わかりやすく(?)述べている件(くだり=条)に出会うと、君であれば斎藤忍随(さいとう・にんずい)訳と石井正(いしい・ただし)訳の、どちらを選ぶであろう。

 

我々の存在〔存在→傍点〕、この曖昧(あいまい)な、苦悩にみちた存在、この〔、〕つかのまの夢にも似た存在は、はなはだ重要な〔、〕さし迫った問題〔問題→傍点〕で、一度この問題にめざめると、他の問題や目的は〔、〕すべて〔、〕その影におおい隠されるほどである。だが〔、〕わずかの例外をのぞけば、すべての人々は〔、〕この問題に対して明白な意識を持たず、それどころか全く違った問題に心をくだき、ただ今日という日や、自分の一身につながる明日という〔、〕同じく〔、〕つかのまの時にのみ気をくばりながら、無為の日々を送っている。

 

人生という――この曖昧な・苦しみの絶えぬ・うつろいやすい夢のごとき生存の――問題が、いかに重大であり、切実であるか、――だれしも、この問題に気がつくやいなや、他のあらゆる問題や目的などは、これによって〔、〕おおいかくされるほど、重大であり切実であるということを、よくよく考えているとして、――さて、その場合、いかにすべての人間が、――ごく少数の稀有(けう)な人を除いては、――この問題を明瞭に意識せず、さらに、この問題を心に懐〔いだ〕く様子さえ少しも見受けられないで、かえって、この問題よりもむしろ、他のあらゆる事物に心を奪われ、ただ今日のことや自分たちの将来の〔、〕ほんの目先のことだけしか考えないで、その日その日を過ごしてゆき......〔後略〕

 

前者が、斎藤忍随訳で、後者が、石井正訳である。意外や意外、君が少しでも哲学の勉強をしたことがあるのなら、おそらく君は前者が読み易いであろうし、そうでなければ、むしろ君は後者の方に親しみを感じるのかも知れないね。まあ、どちらでも構わない、と言えば、それまでのことではあるけれども、そもそも哲学であれ何であれ、基本的に翻訳(translation=超越移動)という営みは誰のために、誰を読者(reader→読書家)に想定して行なわれるのか知らん、と問えば――これが案外、簡単なようではあっても、簡単ではないから始末が悪い。なにしろ、とりわけ哲学の場合、普通に世間に出回っている翻訳の数々は、どう見ても、素人(しろうと=白人)のためのものではなく、玄人(くろうと=黒人)のために、要は専門家(specialist)のために、物されているのであるから。

例えば、先刻の引用の冒頭の、前者であれば「存在」という表現と、後者であれば「生存」という表現は、かなり日本語の場合、その語感(ニュアンス)を異にするのは確かであって、これを「存在」とするのか「生存」とするのか......それだけで、読者は相当に違った印象を、この一つの語からさえ、受け取ってしまうのであるから大変である。おまけに、幸か不幸か哲学の勉強をしていると、これまた『日本国語大辞典』が「存在」の語釈として、ごく一般的な「現に〔、〕そこにあること。人間や事物が、それぞれの性質や働きや価値を持ってあること」という説明文に続いて、次のようなチンプンカンプンな「哲学用語」(英 being, existence ドイツ Sein ラテン esse の訳語)を三つも並べていても、そのこと自体、驚きではあっても、これは哲学の、ごく初歩的な知識なのである。

 

㋑ ギリシア哲学や、一般に形而上学で、現象界の変化の根底に横たわる不変の実在。本体。本質。たとえば、パルメニデスの存在、プラトンのイデアのたぐい。

㋺ 近世のデカルト以後では、主観に対立して、外界に客観的にあるもの。客観的実在、または現象として経験に与えられているもの。

㋩ 思考作用によって考えられる観念的なもの。たとえば、数学の実数、虚数のたぐい。数理的存在。また論理学で、命題の主語と述語を結ぶ繋辞としての「ある」。

 

閑話休題。ともあれ、このような「存在」や「生存」や、ひいては「人生」の問題に、まさしく問題(Problem=傷害物)として出会い、立ち止まり、向かい合い、これを考えること(Denken)――考え抜くこと(Durchdenken)が、そもそもショーペンハウアーの説く「思想家」(Denker)の特徴であり、役割であって、彼に言わせれば、このような「思想家」と一般大衆の間には、最初から最後まで、その能力面に著しい、どうしようもない隔たりがある。言い換えれば、このような「存在」や「生存」や、ひいては「人生」の問題に、ただの一度も出会うことがなく、せいぜい今日は大学生の身で、やがて明日は社会人の身で、その日その日を「考える人間」ならぬ「考える動物」として過ごし、その生涯を通じて、ほとんど動物並みの、限られた視界しか、一般大衆は手に入れることがない。

と、まあ、このようにしてショーペンハウアーの物言いは、いろいろ過激(......^^;)であるし、物騒でもある。であるから、ついつい彼の物言いに乗っかり、これに振り回されると、君や僕は思わぬ、誤解を仕出かしたり、逆に、おかしな共感を催したりしかねないから、ご用心。その点、僕に言わせれば、とても彼が穏当に、このような「思想家」と、さらに「読書家」の違いについて、あれこれ述べている箇所があるから、その中から今回は、結果的に「読書」(Lesen)が君や僕にとって、どのような形で行なわれれば有効であり、反対に無効であるのかを、ショーペンハウアーが説いている部分を引用しておこう。ついでに、ここでも斎藤忍随訳と石井正訳の双方から、まったく同じ一節を掲げて、君には翻訳の難しさと、裏を返せば楽しさを、どちらも伝えることが出来れば幸いである。

 

読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思想誘導の務めをゆだねる。〔中略〕だが自らの天分に導かれる者、言い換えれば自発的に正しく思索する者は正しい路を発見する羅針盤(らしんばん)を準備している。それで読書は〔、〕ただ自分の思想の泉が枯れた時にのみ試みるべきで、事実、最もすぐれた頭脳の持ち主も〔、〕やむなく読書にふけることも〔、〕よく見うけられることであろう。しかし〔、〕これとは逆に本を手にする目的で、生き生きとした自らの思想を追放すれば、聖なる精神に対する叛逆罪(はんぎゃくざい)である。そういう罪人は植物図鑑を見、銅版画の美しい風景をながめるために、広々とした自然から逃亡する者の姿に似ている。

 

読書は、自分で考えることの単なるひとつの代用物にすぎません。その際、人は自分の思想を〔、〕ある他の人から、(幼児の歩みを助ける〔、〕あの)引紐で導いてもらうわけです。〔中略〕これに反し、守護神(ゲニウス)に導かれる人は、いいかえると、みずから考え・自由意志的に考え・正しく考える人は、――正しい路を見つけるように、羅針盤をもつわけです。――ですから、人は〔、〕ただ自分の思想の源泉が停滞したときにのみ、読書するようにしなければなりません。思想の源泉が停滞することは、最良の頭脳においてさえ、しばしば実際に起こることもありましょうから。しかるに、自分自身の原動力たる思想を追い払って、書物を手に取ろうとするのは、神聖な精神に反抗する冒瀆(ぼうとく)です。こんなことをするのは、乾燥植物標本を見るために、あるいは、銅版画の美しい風景を眺めるために、わざわざ〔、〕ひろびろとした自然の世界から逃げだすようなものといえましょう。

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