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宗教について ――「教養」の来た道(301) 天野雅郎

この所、折に触れて宗教のことを考えている。振り返れば、これまでにも例えば、このブログにおいて僕は、君に「宗教と教養の狭間」から始まって、宗教という表題の付いたエッセーを、あわせて五つばかりも(「宗教は、お好きですか?」「宗教は、お嫌いですか?」「宗†教†誕†生」「宗教も教育も、いまだ若かった頃」)並べているけれども、その日付を見ると、もう今から五年近くも昔のことであり、それは遡ると、さらに一年前の「和歌山大学教育研究集会」(「夢活フォーラム」)の場に辿り着くようである。......と、どうやら僕は、このようにして五年ばかりの周期(サイクル)で、みずからが宗教のことを考える機会(すなわち、チャンス)を与えられているように感じているが、まあ、そのこと自体が僕に言わせれば、はなはだ分かりやすい、宗教の特徴でもあった次第。

なぜなら、そもそも宗教とは僕にとって、このような「円」や「球」や――要は、かつて古代のギリシア人が kyklos と呼び、これを引き継いで、古代のローマ人が cyclus と称し、そこから結果的に、やがて14世紀の終わり頃に英語の cycle という語が生まれるに至ったような、まさしく「循環」や「反復」や「回帰」ほど、宗教という語に似つかわしいイメージは存在していないからである。事実、すべての宗教には必ず、それが教祖であっても教典であっても、あるいは、そのような教祖や教典を欠いている、いわゆる自然宗教であっても、ことごとく、そのような教祖や教典への「循環」や「反復」や「回帰」が、何らかの祭事や儀礼として含まれているし、さもなくば、そのような「循環」や「反復」や「回帰」そのものが、その名の通りの自然として、信仰や崇拝の対象となっている。

論より証拠、君や僕が自分の周囲を見回して、おそらく一番、宗教という語を身近に感じ取ることが叶うのは、お正月の初詣(はつもうで)や、お盆の折の、お墓参りであろうが、これらの行事が尽(ことごと=悉)く、歳月の「循環」や季節の「反復」や、あるいは時間の「回帰」によって成り立ち、彩(いろど=色取)られていることは歴然としている。したがって、いささか不謹慎なようではあるけれども、このような際に君や僕が宗教を理解し、何となく......ふと宗教的な雰囲気の中に佇(たたず)んでいる自分を発見することが出来るとすれば、それは突き詰めれば、その場所が寺や神社であるからではなく、むしろ、そこに君や僕が自分の、生まれてきたことや死んでいくことや――そうであるからこそ、ここに今、こうして生きていることを、受け止めるからなのではあるまいか。

その意味において、僕は先刻来、君に宗教という語を「循環」や「反復」や「回帰」という言い回しに置き換えて、そこから君の、宗教への接近(アプローチ)の糸口を示そうとしている訳である。なにしろ、きっと君や僕に宗教を嫌ったり、これを無視したり、反発したりする理由があるとすれば、それは多くの場合、実は宗教という語の抱え込んでいる、歴史や文化や、その背景に根拠があるのではないか知らん、と僕は考えていて、それならば、その宗教という語自体を差し当たり、取り除いた所から話を進めるのが手っ取り早く、最善の方策なのではなかろうか。その点、僕は宗教という語の生みの親である、あの森有礼(もり・ありのり)には悪いけれども、これを原語(religion)どおりに、原義(religio)どおりの「循環」や「反復」や「回帰」と捉えることから、出発したい。

と言ったのは、もともと日本語で「宗教」と言うと、すぐに仏教や神道や、あるいは儒教や道教のことが想い起こされるが、これらは決して、君や僕が現在、宗教という語で指し示しているものでは、ないのであって、まず「宗教」とは明治時代の初期(厳密に言えば、江戸時代の末期)になって、はじめて産み出された翻訳語(=近代的日本語)であることを、しっかり把握しておく必要がある。言い換えれば、この語は弱冠、19歳(!)の誕生日を迎えたばかりの、森有礼の留学体験から創造(想像?)された語であり、言ってみれば、昨今の大学生が一年次に、どこかの国に留学し、そこで目にし、耳にした......人や物を新鮮な驚きと共に、どうにかして日本語に置き換えることは叶わないのかと、悪戦苦闘の末に思い付いた、当時としては出来たてのホヤホヤの、新語であったのである。

ちなみに、ここで日本最古の哲学辞典である、例の『哲學字彙』を引いてみると、明治十四年(1881年)版も明治十七年(1884年)版も、そろって religion には「宗教」が宛がわれ、その用例には universal religion(一統宗)が挙げられているに過ぎない。ところが、これが明治四十五年(1912年)版になると、とたんに atheistic religion(無神論的宗教)を筆頭に、以下、順番に comparative religion(比較宗教)から、そのドイツ語表記(vergleichende Religion)に至るまで、計20の用例が並んでいる。興味深いのは、その中に history of religion(宗教史)や sciense of religion(宗教学)や、あるいは philosophy of religion(宗教哲学)が顔を出していたり、また natural religion(自然宗教)や primitive religion(原始宗教)も、登場済みであったりする点であろう。

要するに、この段階に辿り着くと、もはや昨今の君や僕を取り巻いている、いわゆる国際的(インターナショナル)で地球的(グローバル)な、宗教事情や宗教状況と、それほど(まったく?)変わらない世界が、姿を見せていることは疑いがない。これが今から、ほぼ100年を遡った時点である。そして、そこから裏を返せば、逆に100年が経って、はたして君や僕は「宗教」という語で、いったい何を、どのように理解するまでに至ったのであろう。そのことを、はっきり表明できるのであれば、こうして僕が「宗教」という語の成り立ちや、その150年来の来歴について、君に昔、昔の昔話をするのも、失礼千万な話であろうが、さて君の返答は、いかがであろう。少なくとも、僕自身は残念ながら、困ったことに、この問いに対して消極的で、はなはだ絶望的で、あらざるをえない始末。

なにしろ、この「宗教」(religio)という語を今から、もう2000年以上も前に使い、それを「循環」や「反復」や「回帰」と結び付け、しかも、その結び付きを人間が、何度も、何度も「読み直す」(relegere)行為であると規定した、あのキケロの声にすら、君や僕が耳を傾けるのは困難であったに違いないから。その点、今回は久し振りにフランシス・ベーコンの『随筆集』から、その「宗教における統一について」という一章を取り上げ、これを僕は君に紹介するが、その冒頭は「宗教は人間社会の主要な絆であるので、宗教そのものが統一の真の絆の中に〔、〕しっかり閉じこめられるなら、それは幸福なことである」という一文で始まっている。が、それにも拘らず、いつも「人間社会」は奇妙なことに、その「絆」ならぬ「対立」を、ひたすら追い求めて、いるのであるけれども。

 

人々は〔、〕ありもしない〔、〕もろもろの対立を作り出す。そうして、それらを新しい用語で言い表わして固定するので、意味が用語を支配しなければならないのに、実際には用語が意味を支配する。......「俗悪な新奇な言葉と、偽りの知識による対立を避けよ」〔『テモテ前書』〕〔改行〕偽りの平和または統一も二つある。一つは、平和が完全な無知にのみ基礎をおいている場合である。闇の中では〔、〕あらゆる色が一致するからである。もう一つは、基本的な争点における諸対立を〔、〕あっさり認めた上で取りつくろう場合である。真理と虚偽は、このような事柄においては、ネブカドネザルの像の爪先(つまさき)にある鉄と粘土のようなものである。〔『ダニエル書』〕それらは〔、〕くっつくかも知れないが、一体とはならない。

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