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迷信について ――「教養」の来た道(302) 天野雅郎

前回は久し振りに、フランシス・ベーコン(お久し振りね、あなたに会うなんて~♪)の『随筆集』を引き合いに出したので、もう少し、この......小川三四郎(『三四郎』)ならぬ夏目漱石(なつめ・そうせき)の愛読書に足を止め、話を続けたい。なお、この本の中の「宗教における統一について」(of Unity in Religion)という章を引くに先立ち、僕は「宗教」という語の語源説の一つとして、キケロの「読み直し」(relegere)説を君に紹介したのであるが、ついつい、もう一つの有名な「結び直し」(religere)説の提唱者であり、やがて「キリスト教徒のキケロ」(Cicero Christianus)と称されることにもなる、あのラクタンティウスや、あるいは、その後を継ぐアウグスティヌスのことが頭にあって、なにやら意味不明な年代計算をしており、修正を施しておいたので、ご容赦を。

ちなみに、このようなキリスト教の「教父」――と表記したい所を、なぜか僕のパソコンは「恐怖」と変換するので、困ってしまうのであるけれども(......^^;)ともあれ、彼ら「教父」たち(Church Fathers)の言動を介して、いわゆる正統(オーソドックス)なキリスト教の信仰や、その教理は確立されるのであり、それは結果的に、ヨーロッパの中世(前期)哲学が「教父哲学」(patristic philosophy)という名で呼び慣わされ、この、いかにも矛盾に満ちた名の下で、キリスト教が唯一の、真正の「哲学」の地位を独占していく経緯と重なり合っている。おおよそ、2世紀頃から8世紀頃まで。したがって、先刻のラクタンティウス(Lactantius)やアウグスティヌス(Augustinus)は、その内の「ラテン教父」と称される人たちで、その名の通り、ラテン語で著述をした人たちであった。

言い換えれば、このようにしてキリスト教と、その独自の信仰や教理は、ほかならぬラテン語の中で醸成し、醸(かも→かむ→噛!)し出されたのであり、その味も香りもラテン語に特有の、語義や語感を抜きにしては成り立たないものであることを、君や僕は忘れるべきではない。なにしろ、それを忘れてしまうと、ほかならぬ「宗教」を「読み直し」や「結び直し」という形で理解する、その理解の仕方が、ほとんど(まったく?)機能不全に陥るのは当然であったから。論より証拠、これを仮に「宗教」という字面で、漢字の字義に即して理解したり、その上に「仏教」や「儒教」や「道教」や、おまけに「神教」という表現まで付け加えたりすれば、そこに姿を現(あらわ=露+顕)すのは著(いちじる)しく、異なった「宗教」の見方や、要は「宗教観」であったに違いないのである。

その意味において、あくまで「宗教」(religio)が神と人の間を、ふたたび(re)結び付け、繋ぎ合わせる(ligere)ものである、と――このように想定すること自体が、その想定の背後には、この関係を一度、壊れ、断ち切られたものとして捉えることを、前提としているのは明瞭であろう。と言い出すと、すでに君は『聖書』の中で、あの「第一のアダム」(もしくは、最初のアダム)と「第二のアダム」(もしくは、最後のアダム)という名で呼ばれている、その名の通りの「キリスト」の神秘(mystery)のことを想い起こしてくれているのではあるまいか。ただし......それが結局、神秘的(mysterious)である所以(ゆえん)は、そこで君や僕が自分自身の、目や耳を塞ぎ、閉じること(myein)ことを要求される、まさしく神話(myth)であったからに、ほかならないのであるけれども。

ところで、このような事態から派生的に、そもそも「宗教」は「人間社会の主要な絆」であるとする、前回のフランシス・ベーコンの『随筆集』の言い回しも生まれているに違いない。が、それと同時に、いたって困ったことに「宗教」は、これまで歴史上、もう一方では「人間社会」の「害悪」の起源であったり、その震源であったりしたことも、おそらく確かなのであって、以下、繰り返しとはなるけれども、君には「宗教における統一について」の冒頭部分の一読を願いたい。なお、このような物言いに際して、いかに彼がキリスト教徒(クリスチャン)以外の、いわゆる「異教徒」(pagan=偽神崇拝者)のことを知らなかったのか、その知識不足には呆然とせざるをえないが、まあ、それもキリスト教徒に固有の特徴(特権?)なのか知らん、と僕は半ば、諦めの境地に達している次第。

 

宗教は人間社会の主要な絆であるので、宗教そのものが統一の真の絆の中に〔、〕しっかり閉じこめられるなら、それは幸福なことである。宗教をめぐる口論や分裂は、異教徒には知られていない害悪であった。その理由は、異教徒の宗教は何か堅固な信仰にあるより、むしろ祭式や儀式にあったからである。その証拠に、彼らの教会の重立った教師や教父は詩人であったのだから、彼らの信仰が〔、〕どんな種類のものであったかが想像されよう。ところが、真の神は妬〔ねた〕み深い〔妬み深い→傍点〕神であるという属性をもつ。したがって、そのような神の崇拝や宗教は、(他の神々との)混合も組合わせも受けつけようとしない。

 

と、ここまで書き継いで、ふと僕は三木清(みき・きよし)が『人生論ノート』の、どこかのページで、このような「妬み深い神」のことを論じていたのを想い起こしたので、探してみると、ありました、ありました。ただし、それは「怒〔いかり〕について」の冒頭部分の「怒の神」では、あったけれども。「Ira Dei(神の怒)、――キリスト教の文献を見るたびに〔、〕つねに考えさせられるのは〔、〕これである。なんという恐ろしい思想であろう、また〔、〕なんという深い思想であろう。〔改行〕神の怒は〔、〕いつ現われるのであるか、――正義の蹂躙(じゅうりん)された時である。怒の神は正義の神である。〔改行〕神の怒は〔、〕いかに現われるのであるか、――天変地異においてであるか、予言者の怒においてであるか、それとも大衆の怒においてであるか、神の怒を思え!」

う~ん、けっこう過激ですね。――三木清が? それとも、キリスト教が? もちろん、どちらも。とは言っても、このようにして「怒の神は正義の神である」と喝破(カッパ)されても、それでは、その「正義」とは何なのであろう......と君や僕は一瞬、立ち止まってしまうに違いない。でも、安心して貰(もら)って構わない。ちゃんと三木清は以下のように付け加えているから。「しかし正義とは何か。怒る神は隠れたる神である。正義の法則と考えられるようになったとき、人間にとって神の怒は忘れられてしまった。怒は啓示の一つの形式である。怒る神は法則の神ではない。〔改行〕怒る神にはデモーニッシュなところがなければならぬ。神は〔、〕もとデモーニッシュであったのである。しかるに今では神は人間的にされている。デーモンも〔、〕また人間的なものにされている」。

さて、いかがであろう。このようにして神が「怒る神」でもあり「正義の神」でもあり、また「隠れたる神」(Deus absconditus)でもある限り、その神を人間的(menschlich→human)に理解したり、ましてや君や僕が誰か、人と付き合う折のごとく、その神を愛したりすることなど、土台、無理な注文なのではなかろうか。であるから、そのような神を三木清も「法則の神」ではない「デモーニッシュ」(dämonisch=魔的)な神として、さらに超自然的(übernatürlich)な力として捉えていたはずである。その繋がりから、僕は今回、フランシス・ベーコンの『随筆集』の中の、今度は「迷信について」(of Superstition)の一節を引いて、君の一覧に供することにしよう。この文脈に即して言えば、どうやら僕個人は「迷信」の側ではなく、むしろ「無神論」の側に、心を傾けてきたのであるらしい。

 

神について〔、〕ふさわしくないような意見をもつくらいなら、むしろ意見を全くもたないほうがよいであろう。一方は不信、他方は侮辱だからである。〔中略〕また神に対する侮辱が大きくなるにつれて、人間に対する危険も大きくなる。〔改行〕無神論は人間を常識、哲学、生まれつきの敬虔、評判に敵対させない。すべて〔、〕これらのものは、たとえ宗教が存在しなくても、外面的な道徳的徳性への手引きとなるだろう。ところが、迷信は〔、〕これらのものを〔、〕すべて打ちこわして、人々の心の中に絶対君主制を建てる。

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