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無神論について ――「教養」の来た道(303) 天野雅郎

無神論という日本語は、君や僕が「神」について、あれこれ考える時に、あまり都合の好い語ではなく、第一、そもそも無神論とは「論」なのか知らん、と僕は感じていて、この語が『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈のように、ただ単に「神の存在を否定する哲学上、宗教上の立場。理論上、懐疑論・感覚論・実証主義・唯物論と結びつくことが多い」という事態を指し示すだけなのであれば、この語は「哲学」や「宗教」や、あるいは「理論」と関わらない限り、ほとんどの人には無縁の語であって、そのような「哲学」や「宗教」の枠内に、そこに一風、風変わりな「理論」として収まっていれば、それは詰まる所、まったく人畜無害の語であり、この語によって人や家畜が影響を蒙(こうむ=被)ることなど、ありえない、と日本人の多くは高を括っているのではあるまいか。

とは言っても、そもそも家畜には「理論」という語を介して、表現されている行為も、その成果も、まったく与(あずか→預)り知らぬものであろうから、この件に関して無害(harmlessness→innocence)なのか、それとも逆に、有害なのかを問われるのは、おそらく人のみであろう、と僕は思うけれども、例えばヨーロッパの中世には驚くべきことながら、何と家畜を相手にした、立派(?)な「動物裁判」(animal trial)も開かれていたのであるから、予断は許されない。なお、ついでに『日本国語大辞典』で「理論」の項を引くと、そこには次のような説明が施されているから、ご参照を。――「(英 theory の訳語)ある物事に関して、原理・法則を〔、〕よりどころとして筋道を立てて考えた認識の体系。また、実践に対応する純粋な論理的知識。純観念的に組み立てられた論理」。

ああ、なんだか話が、どんどん難しい方向に進んでいるようで、いや~な感じ。でも、僕に言わせれば、もともと「理論」とは古代のギリシア人が「テオーリア」(theoria)と呼んでいたものであり、それが流れ......流れて、やがて英語の「セオリー」(theory)に辿り着いただけのことであって、それは別の英語に置き換えれば、もともと viewing とか spectacle とか、このような表現に代替可能な語であったはずである。したがって、これを哲学史上、まずアリストテレスが「プラクシス」(praxis=実践)や「ポイエーシス」(poiesis=制作)から区別して、人間の最高の、至福の活動として位置づけたのは有名な話であり、このような経緯を弁(わきま)えておかないと、むしろ「テオーリア」が何かを見たり、眺めたりする行為であった、という原点が見失われてしまうから、ご用心。

言い換えれば、どうやら日本人の多くは江戸時代に、この「理論」という語が「物事の筋道や道理などについて論じること。また、論じ合うこと。論争すること。また、その議論」という形で使われていたのと、あまり変わらない理解の仕方を、この語に対して、し続けているのではないか知らん、と勘繰られるのであるから困った話である。おまけに、どうしても日本語で「論」と言うと、そこには先刻の『日本国語大辞典』の引用の通り、それが「理論」であっても「議論」であっても、あるいは「論争」であっても、とにかく何かを、誰かと共に論(あげつら)う、というイメージが強く、そこには一種、言挙(ことあげ)の伝統が脈打っていることは確かであり、だから下手をすると、その「言挙」を極力、慎(つつし)んだり、控えたりすることにも、なりかねないのではなかろうか。

その点、反対に英語の「セオリー」(theory)において重要で、欠かせないのは、その対象を君や僕が見たり、眺(ながめ=長目)たりしているのかどうか、という点であり、この点を抜きにしてしまうと、きっと「理論」は「理論」という名で呼ぶ必要のない、称するべきではない、何物かに姿を変えてしまうに違いない。例えば――と、ここから話は冒頭の、いわゆる「無神論」に戻るけれども、はたして君や僕は「無神論」という語によって、いったい何を見たり、眺めたりしているのであろう。と言い出すと、おそらく君や僕は一瞬、不意を突かれて、ドギマギせざるをえないのではあるまいか。なにしろ、この「無神論」という語によって指し示されているのは、まず「神」が「無」であり、これを見たり、眺めたりすることは、とうてい不可能と見なす立場であったはずであるから。

要するに、このようにして辿り直すと、いわゆる「無神論」は君や僕が、ごく普通に日本語で、そのまま「論」(→理論)と呼んでいるものではなく、むしろ、それは「セオリー」という英語も踏まえつつ、そこから古代のギリシア人の語感に立ち返るべきものであることが分かってくる。だからこそ、あのフランシス・ベーコンも『随筆集』の中で、その「無神論について」の冒頭を次のように始めていたのである。......「私は〔、〕この宇宙に心がないことを信ずるくらいなら、むしろ『黄金伝説』〔=キリスト教の聖人伝〕の〔、〕すべての寓話やタルムード〔=ユダヤ教の口伝律法集〕やコーラン〔→ご存知! イスラム教の聖典〕を信じたい。それゆえ、神は決して無神論を反駁するために奇跡を行なったわけではない。神の通常の業(わざ)が〔、〕それを反駁しているからである」。

なお、この場で彼が「神の通常の業」と言っているのは、さしあたり君や僕の生きている、この世界が世界として、そこに東西南北、上下左右の空間軸と、過去と現在と未来の時間軸を持ち、これらが相互に、さまざまな姿で組み合わされることで、そこに古代のギリシア人が「コスモス」(kosmos→cosmos)という名で呼んだ、その名の通りの「秩序」と「調和」の保たれた宇宙が出現する、という事態を考えれば充分であろう。このような事態を、さらに古代のギリシア人は「ハルモニア」(harmonia→harmony)と称したが、それは音楽における和声のごとく、この宇宙が「天球の音楽」(music of the spheres)や「天球の和声」(harmony of the spheres)を奏でている、と見なす――あのピュタゴラス学派の「音楽論」を通じて、おそらく君にも、お馴染みのものなのではなかろうか。

やれやれ、また「音楽論」の「論」である。が、この「論」にしても決して、この「音楽」(mousike→musica→music)は人の耳には、そのまま音や声として、聞こえないのが特徴であって、この「音楽」を聴くことが叶うのは、それこそ「音楽の女神」である「ミューズ」(Mousa→Musa→Muse)を始めとする神々でしかない。と言うことは、このような「天球の音楽」や「天球の和声」を、古代のギリシア人(ひいては、君や僕)は耳ではなく、むしろ目で見て、これを眺めていたのではあるまいか。......と、このようなことを問い出すのは、人が「哲学を少しばかり〔、〕かじる」ことで生じた「無神論」の状態であるのか、それとも、そこから「哲学を深く究(きわ)めると、再び宗教に戻る」とフランシス・ベーコンの述べている、その「宗教」であるのか、さあ、どちらなのであろう。

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