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神について ――「教養」の来た道(304) 天野雅郎

神という字(すなわち、漢字)を「かみ」と読むのは訓読(=日本語読み)であって、これを音読(=中国語読み)に改めれば、今度は「ジン」(呉音)とか「シン」(漢音)とか、このように音が違ってくるのは、おそらく小学生でも、ましてや中学生や高校生であれば当然、知っている、常識であったに違いない。が、これが元来、中国では「電光の屈折して走る形」を象(かたど=形取)った「申」(シン)と、これに「祭卓の形」を象った「示」(呉音→ジ、漢音→シ)を加え、出来上がったのが「神」であることを、やはり弁(わきま)えているのは大学生ならではの、教養であったろう。要するに、そもそも漢字では「神」(ジン・シン)が、そのまま日本語にすると、君や僕が「かみなり」(神鳴)と呼んでいるものを、イラスト(レーション)化したものであったことが分かる。

と、このように述べているのは恒例の、白川静(しらかわ・しずか)の『字訓』(1987年、平凡社)であるけれども、この場を借りて『字統』(1984年、平凡社)の説明も、さらに君の一覧に供しておくと、まず「神は天神、すなわち自然神」であるのがルールであって、ここには元来、地の神である「祇」(ギ→地祇)や、あるいは「祖霊を含むことはなく、人の霊には鬼〔キ→人鬼〕という」のが決まりであった。したがって、あの菅原道真(すがわら・の・みちざね)も「地祇」や「人鬼」ではなく、その名の通りの「天神」なのであり、このようにして「天神」が「人鬼」と重なったり、また「地祇」が「天神」に連なったりする所に、おそらく中国でも日本でも、いわゆる「宗教思想」の秘密は秘匿されている。――「神の観念の展開は、古代宗教思想の中心的な課題をなしている」。

さて、そのような中国の「神」(ジン・シン)を、日本では「かみ」と称し、今に至る訳である。が、その「かみ」を日本語では、なぜ「かみ」と呼ぶのか知らん......と言い出すと、それが実は、よく分かっていないのが実情であって、ふたたび白川静の『字訓』の記載に従えば、これを「上」(かみ)や「髪」(かみ)に結び付けるのも、厳密に言うと、音韻上は不可能であるし、それをアイヌ語の「カムイ」と繋げるのも、それほど簡単な話ではないらしい。とは言っても、逆に「神」(かみ)と「上」(かみ)の「両者を同源とする考えかたは古くからあった」のも事実であり、このようにして「もと同源の語が上と神とに分裂したもの」であると考える、例えば渡部昇一(わたなべ・しょういち)の『国語のイデオロギー』(1977年、中央公論社)の見解を白川静は紹介してもいる。(※)

(※)僕の手許の『字訓』では、渡部昇一が渡辺昇一と誤記されている。多分、現時点では修正済みなのであろうが、念のため。

ともあれ、このようにして「神」(かみ)は日本でも、ご本家の中国でも、それぞれ固有のイメージを伴っていたり、それらが独自の展開を遂げていたりする。なにしろ、そのような彼(かれ)や彼女(かのじょ)や、より適切に言えば、あれ(!)は「自然神」であって、君や僕の生きている、それぞれの土地(とち→つち)の、地形や地勢や、地相や地味によって、さまざまに変化をするのが当然であり、必然であったからである。であるから、このような「神」(かみ)を指し示すために、最近では「ゲニウス・ロキ」(genius loci)というラテン語が宛がわれたりもするが、この語の原義は人の誕生から死まで、その人を守護する霊の意味であるから、これは古代のギリシア人が「ダイモーン」(daimon→daemon→demon)と呼んでいたものを、やがてローマ人が引き継いだ形なのであろう。

いずれにしても、このような「神」(かみ)は例えば、あの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が上手に説明してくれているように、まず「古代人が、天地万物に宿り、それを支配していると考えた存在。自然物や自然現象に神秘的な力を認めて畏怖し、信仰の対象にしたもの」であった次第。そして、それが総じて日本人の「宗教的、民俗的信仰の対象」となり、そこから「世に禍福を降し、人に加護や罰を与えるという霊威」として受け止められ、今に及んでいる――と言えば、言えるかな。ただし、このような「神」(かみ)を日本人は、さらに「神話上の人格神」に仕立て上げたり、おまけに「天皇、または天皇の祖先」や、あるいは「(比喩的に)恩恵を与え、助けてくれる人、ありがたいものなど」にまで、それこそ「神ってる」(......^^;)と歓声を上げたりするから、大変。

でも、そのような日本人にも一番、不分明で不可解であったのは、この「神」(かみ)という語が結果的に、英語の god(小文字→gods)ならぬ、大文字の God の翻訳語に選ばれて、何と「キリスト教で、宇宙と人間の造主〔つくりぬし〕であり、すべての生命と知恵と力との源である絶対者をいう」(同上)ことになった時であったろう。そして、その時から数えて、おおよそ150年ばかりの時間が経って、この「神」(かみ)という語を日本語としても、また翻訳語(=近代的日本語)としても、ごく当たり前に日本人は使っているけれども、さて、それでは「神」(かみ)とは何か――と問われれば、それを日本語においても、翻訳語においても、はたまた中国語においても、いっこうに頭を働かせることが叶わず、ただ茫然と「上」(かみ)を見上げるしかないのが大方の惨状であろう。

やれやれ、こんな不手際(ふてぎわ)を犯すくらいなら、はじめから God を「神」(かみ)と訳したりせずに、そのまま片仮名(カタカナ)で「ゴッド」とか、あるいはキリスト教の渡来以降、いわゆる隠切支丹(かくれキリシタン)も含めて、キリスト教徒(キリシタン→ポルトガル語)が用いていた「デウス」(ポルトガル語)とか、このように称しておいた方が日本人には、はるかにキリスト教への接近(アプローチ)も可能になったのではなかろうか......と僕は思うけれども、そんな溜息を吐(つ)いてはみても、もう後の祭り(too late!)。ましてや、その背後に連綿と連なっている、ラテン語の「デウス」(Deus)やギリシア語の「ゼウス」(Zeus)のことを想い起こすと、もはやキリスト教の「神」(かみ)を理解することなどは、遠い夢の、また夢(dream within a dream)。

ところが、このように思っていたら、意外や意外、どうも最近の大学生を相手に「神」(かみ)や「仏」(ほとけ)の話題を持ち出すと、このような存在と、その知識は彼ら、彼女らの頭の中からは、ほとんど綺麗(きれい)サッパリと抜け落ちていて、その分、もっぱら「ゴッド」関連の情報は、やれデヴィル(devil)だ、やれゴースト(ghost)だ、やれスピリット(spirit)だ、と満載のようなのである。あれあれ、これでは僕が何かしら、君たちに教えを請わなくてはならないのかな、と思い直すことも度々である。が、残念ながら、僕自身は昔、昔の高校生の頃から、あの眠狂四郎(ねむり・きょうしろう)の叫んだ「神が人を作ったのではなく、人こそが神を作ったのだ」(!)という教えの信奉者であったから、なかなか、その気にはなれないのが正直な感想なのであるけれども。

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