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神と仏について ――「教養」の来た道(306) 天野雅郎

神(かみ)について書き、仏(ほとけ)について書き、そして今度は、神と仏の混じり合いについて書こうか知らん、と僕は考えていたのであるけれども、よく考えてみたら、これまで神にも仏にも、ついぞ僕自身は出会ったことがなく、これでは神と仏の混じり合いについて書くのは、いよいよ荷が重いな、と感じていた所、つい先日、たまたま新聞記事で岡山県(倉敷市)の小学生が、体の左半分は雄(オス)で、右半分は雌(メス)のカブトムシを飼っている(!)というニュースを読み、よし、これなら僕も雌雄同体のカブトムシならぬ、神と仏の雌雄同体性(hermaphroditism→Hermaphroditos→ヘルマフロディトス→両性具有者)について論じることは出来るのではなかろうか、と調子に乗って、筆を執り始めた次第。でも、そのためには少しばかり、補足的な前口上が必要であろう。

と言ったのは、そもそも神と仏の混じり合いについて、これを日本の宗教史で扱う場合には、おおむね現在は「神仏習合」という語が使われていて、これは多分、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が『現代文化百科事典』(1937年、日本辞書出版社)を用例に挙げている点を踏まえると、どうやら昭和になって用いられた語のようである。それ以前は、明治以来の「神仏混淆」が一般的で、こちらは同辞典には次のような説明文が載せられている。――「神仏同体説に基づいて、日本固有の神と仏教の仏〔、〕菩薩とを同一視し、両者を同じところに配祀〔はいし〕して信仰すること。すでに奈良時代に始まり、以後、神宮寺(じんぐうじ)、本地垂迹(ほんじすいじゃく)説の流行をみた。明治元年(一八六八)に「神仏判然令」が出され、その混淆が禁止された。神仏習合」。

さて、いかがであろう。このような事態を君も、きっと高校生の頃、日本史の授業で平安時代の仏教のことを習った際に、教わった記憶があるのではなかろうか。でも、注意しておいて欲しいのは、この類(たぐい=比)の話は単に、仏教という特定の宗教に、固有のエピソードなのではなく、当時の仏教は言ってみれば、日本の国教(state religion)であり、それどころか、当時の日本人の知っている、唯一の世界宗教(world religion)でもあった訳であり、その意味において、このような話を君が高校生の折、日本史の時間にサボ(sabot→sabotage)ってしまい、眠っていたとか(→死語)喋っていたとか(→私語)まるで昨今の大学生の予備軍(reserves)のような状態であったとすれば、それは日本の歴史それ自体が分からなくなる、分かりやすい分岐点であったのかも知れないね。

なお、その意味において、と僕は繰り返すけれども、このような話は仏教以外の、キリスト教やイスラム教(=イスラーム)のような世界宗教には、ほとんど似たり寄ったりの形で、あてはまりうる事態であって、それは結果的に「世界宗教」と呼ばれる宗教が、必然的に抱え込まざるをえない、伝道(propagation=増殖)や布教(missionary=派遣)の一面(と言うよりも、裏面)なのである。したがって、仮に君が高校生の時分、日本史を取らずに世界史を選んでいたとしても、まず疑いもなく、このような宗教の混合状態は、ひょっとすると「シンクレティズム」(syncretism)という名まで伴って、君の若い目や耳や......要は頭に、飛び込んでいたはずなのである。論より証拠、以下の『日本国語大辞典』の「シンクレティズム」の語釈なら、よもや君は馬の耳に念仏ではないであろう。

 

哲学や宗教で、さまざまな学派や宗派が〔、〕まじりあって統合されたもの。二世紀および四世紀のアレクサンドリア学派における新プラトン主義的学説、一五世紀のベッサリオン〔Johannes Bessarion, 1400頃-1472〕による東西カトリック教会の合同、一七世紀のルター派、プロテスタント諸派、カトリック教会の統合、日本における神仏習合などは〔、〕その例。諸説混合主義。折衷主義。諸教混交。

 

このようにして振り返れば、いわゆる「神仏習合」も日本史の教科書ばかりか、世界史の教科書においても必須の項目であることを、君は理解してくれるに違いない。とは言っても、その際の「哲学」や「宗教」に君自身が、まったく興味を抱かず、このような知識や情報を受験勉強の中で、ただ暗記物(メモリー・ワーク)としてのみ捉えていたのであれば、いっこうに「哲学」や「宗教」は君の身近なものとは、なりえないし、そのような状態で「哲学」や「宗教」を学び、これを身に付けることは不可能なのであるから、難しい話である。逆に言うと、そのような形で「哲学」や「宗教」を誤解し、これを知識や情報としてのみ受け取り、それこそ知ったかぶりに「哲学」や「宗教」のことを語る、その名の通りの騙(かた=衒)りまで、君の周囲には幾らでもいるであろうから、ご用心。

と、ここまで話が来れば、僕が今回、神と仏の混じり合いについて、いったい何を語り(騙り?)たいのか、うすうす君も感じ取ってくれているのではあるまいか。ただし、これまで君に紹介し、説明してきた「神仏習合」や、より広義の「シンクレティズム」と、僕が先刻来、具体例に挙げているカブトムシの雌雄同体性では、そこに相当な違いが含まれているのではないか知らん、と君が冷たい目をしていると困るので、さっそく僕はカブトムシの話を、性懲りもなく繰り返そう。なにしろ、僕も神と仏が合体し、そこから「神仏習合」の姿を呈することが、そのまま雌雄同体のカブトムシのごとく、体の左半分が神(仏?)となり、右半分が仏(神?)となることと、まったく同じだと言いたいのではなく、むしろ僕が君に聴いて欲しいのは、もっと性的な、エッチ(!)な話なのである。

なぜなら、もし「神仏習合」を読んで字のごとく、日本(すなわち、神道)の「神」と中国(すなわち、仏教)の「仏」とが、それどころかインドの「仏」とが、それぞれの翼(つばさ)を鳥のように重ね合わせることであるとするならば、その際の羽(はね)は本来、左右両翼の状態であるべきではなかろうか、と僕は素朴に考え、これを先刻来、カブトムシにも宛がっているのであるけれども、どうやら話は、それほど単純ではないらしく、これは羽は羽でも、いわゆる「羽を交わす」とか「羽を並べる」とか、このように言い習わされてきた、あの白居易(ハク・キョイ)の『長恨歌』にも姿を見せる「比翼の鳥」のことのようなのである。――と書き継いでも、いっこうに君には事情が分からないであろうから、この「比翼の鳥」の語釈を、ここでも『日本国語大辞典』から引いておこう。

 

空想の鳥で、雌雄各一目一翼、常に一体となって飛ぶというもの。男女の契〔ちぎ〕りの深いこと、仲むつまじいことにたとえる。白居易『長恨歌』の「在天願作比翼鳥、在地願為連理枝」〔天に在りては願わくは比翼の鳥と作(な)り、地に在りは願わくは連理の枝と為(な)らん〕で有名。

 

要するに、このようにして鳥であれ木であれ、もともと別の、それぞれ雌雄異体であるはずの生き物が、身を摺(す)り寄せ、絡ませながら、あたかも雌雄同体であるかのごとき様相を示しているのが、この習合という語の明示する、もしくは暗示する、状態の原義であったはず。とすれば、これを仮に日本の「神」と中国やインドの「仏」に宛がって、君や僕が例えば、男の「神」や女の「神」と、男の「仏」や女の「仏」(って、いるのでしょうか?)の関係として捉えるならば、それは結果的に「神仏習合」の理解の仕方として、正しいのであろうか、それとも間違っているのであろうか。そして、それが意外や意外、正しいのだとすれば、日本の「神」は今から1500年近くも昔に、すでに「仏」と契りを結び、不本意ながら、枕を並べ、枕を交わすことを、強いられていたのでもあった。

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