ホームメッセージ性について ――「教養」の来た道(307) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

性について ――「教養」の来た道(307) 天野雅郎

神や仏に、男(をとこ→おとこ)の神や仏がいたり、女(をんな→おんな)の神や仏がいたりする、と言われても、それほど違和感を覚えないで済むのは、要するに君や僕が神や仏を、そのまま信仰の対象として受け止めていない証拠なのではなかろうか。実際、例えば君や僕が本屋の本棚で、ギリシア神話やローマ神話や、あるいは日本神話の本を手に取り、立ち読み(......m(_ _)m)をしたとしても、それは君や僕が「宗教書」を読んでいることにはならず、むしろ「文学書」を読んでいることになるのが分かりやすい例である。その意味において、このような「神話」は『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈にあるような、かつて「多少とも神聖さを帯びた物語」であった時代を遠(とほ→とお)の昔に置き去りにしたままで、遠の眠りに就(つ)いてしまったことになるであろう。

 

原始人・古代人・未開社会人などによって、口伝や筆記体で伝えられた、多少とも神聖さを帯びた物語で、宇宙の起源、超自然の存在の系譜、民族の太古の歴史物語を含むもの。その起源は、自然現象を擬人的に解釈しようとしたことや、人類に共通な無意識・下意識の欲求を投影したことにある。たとえば、ギリシア神話や、日本の『古事記』にある神話のたぐい。

 

とすれば、このような「神話」の語義と同辞典の挙げている、派生的な「神話」の用法――「一般には絶対的なものと考えられているが、実は根拠のない考え方や事柄」との間には、それほど大きな開きは介在しないのではあるまいか、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。なにしろ、そもそも「神聖」であることは僕に言わせれば、そこに無闇(ムヤミ)矢鱈(ヤタラ)と人が近付いたり、手出しをしたりすることの禁じられている、ある種の「不可触性」(untouchability)を前提としているのであって、それを無体にも、人(person)が擬人化(personification)をしたり、そこに仮面(prosopa)を被った、何らかの役割(persona)を担った人(すなわち、役者)が登場したりすれば、これは戯曲や演劇と、もはや紙一重のものに過ぎないであろう、と思われるからである。

その意味において、おそらく君や僕が「宗教」と呼び、その一方で「芸術」と称しているものの間には、とても深い類縁性があるし、その縁(エン→えに→えにし)の淵源を見定めることは、ひょっとすると不可能に近いのかも知れないね。そして、それは人が、まさしく人(ヒト)となっていく途上に際して、そこで音声言語を獲得したり、身振(みぶり)言語を構築したり、とうとう文字言語まで発明したりする......気の遠くなるような、長い、長い時間が折り畳まれているに違いない。さらに、それは君や僕が現在、広く「学問」や、あるいは「科学」(サイエンス)と名付けているものと、おかしな言い方にはなるけれども、これまた一蓮托生(イチレン・タクショウ)の間柄にあるのであって、これらの領域を総称して、君や僕は目下、文化や文明という語を宛がっているのでもある。

さて、このようして振り返ると、君や僕が「宗教」や「芸術」や「学問」と呼んでいるものは、ことのほか濃い、人間的(ヒューマン)な刻印を帯びていることになるし、これらは尽(ことごと=悉)く、人間に固有の思考や特有の感情や、独自の意志が産み出したものであらざるをえない。それを仮に、この場では人間中心主義(ヒューマニズム)と称しておくが、やっかいなのは、そのような人間中心主義の最たるものに、前述のごとき言語(language)があり、これを遡ると、その名の通りに君や僕の舌(lingua)にまで辿り着き、しかも、そのような舌(tongue)は人ばかりか、鳥にも獣にも、それどころか、虫にも魚にも、それぞれの意思表示や意思伝達や、要は、コミュニケーションのための器官として遍在していることであろう。あの『古今和歌集』の仮名序が言っていた通りに。

 

和歌(やまとうた)は人の心を種(たね)として、万(よろづ)の言の葉とぞ、なれりける。世の中にある人、事(こと)業(わざ)繁(しげ)きものなれば、心に思ふことを、見るもの、聞くものにつけて、言ひ出(いだ)せるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)水に住む蛙(かはず)の声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌を詠(よ)まざりける。

 

と言うことは、こようにして生き物には、それぞれの生活環境(environment)にマッチした、周辺世界(circumstances)の見方(=視覚)や、あるいは聴き方(=聴覚)や嗅ぎ方(=嗅覚)があり、また、それらを支え、成り立たせるものとして、おのおのの食べ方(=味覚)や触れ方(=触覚)が存在している訳である。そして、そのような関係性が原理的に、それぞれの生き物の「生の欲動」(エロス)によって産み出されつつ、むしろ根源的に、逆の「死の欲動」(タナトス)によって拘束され、制御(コントロール)されている以上、この関係性は性的な色彩を伴わざるをえない。論より証拠、君や僕が普段、言語的なコミュニケーションの道具に宛がっている......と思い込んでいる、口や唇は紛いもなく、食べることや触れることと繋がった、まさしく性的な器官であったはずである。

と言うよりも、むしろ口や唇は、まず君や僕が食べることや、触れることのために存在し、その上で、その後で、ようやく言語的なコミュニケーションの道具となったに過ぎないのであって、その点、僕は先刻来、君にジークムント・フロイト(Sigmund Freud)経由の「精神分析学」(Psychoanalyse)の用語を借りて、あれこれ話をしているけれども、その、当のフロイト自身が晩年、悪性腫瘍になり、それが口腔内の癌(ガン)であったことに対して、僕は奇妙な関心を持っている。もちろん、その直接の原因は彼の、尋常ならざる煙草(たばこ)好きに起因するのであろうが、それは裏を返せば、彼が唱えた人間の性的発達段階の、いわゆる「口唇期」にも重なり合っているし、そこから生涯、彼が葉巻を手離せなかった以上、それは彼が「口唇期」の固着者であったことにもなるであろう。

人は、ややこしい。稚児(ややこ)の時から、ややこしい。そして――その、ややこしい状態を、人は生涯、それが「口唇期」であろうが「肛門期」であろうが「男根期」(=陰核期)であろうが、はたまた「潜在期」であろうが「性器期」であろうが、それらを背負いながら、生きていかざるをえないし、死んでもいかざるをえないのである。であるから、そのような状態と直接、面と向かい合うのか、合わないのか、それが結果的に、人を「宗教」や「芸術」や「学問」と関わらせるのか、関わらせないのかの、分岐点でもあったに違いない。そして、その分岐点に立ってしまえば、もう人は、それぞれ「宗教」なり「芸術」なり「学問」なり、おのおの道を選び、その道を歩いていくしか、ないのであるが、困ったことに、その「道」は字面の通りの「首」を要求するものでもあった次第。

もちろん、この「首」は誰か、別の人(ひと=他人)の「首」である訳ではなく、人は「宗教」であれ「芸術」であれ「学問」であれ、すべからく、みずからの「首」を「携えて行く」(白川静『字訓』)ことや「携えて進む」(同上『字統』)ことを、どうしようもなく課されているし、それ以外、何の手立てもないのである。と言い出すと、なにやら物騒きわまりのない話のように、君は感じるのかも知れないが、そもそも「宗教」や「芸術」や「学問」は、僕に言わせれば、このようにして物騒きわまりのないものであって、だから人は健康的であったり、常識的であったり、し過ぎると、なかば動物的に、本能的に、これらに近寄らず、近付こうとはしないのである。ちょうど昨今の大学生が、いちばん興味のないのが「宗教」や「芸術」や、ほかならぬ「学問」であったりするように。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University