ホームメッセージ生と死について ――「教養」の来た道(309) 天野雅郎

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生と死について ――「教養」の来た道(309) 天野雅郎

小林秀雄(こばやし・ひでお)の『栗の樹』の話題で、前回は一応、幕引きとなったので、今回は、その続きである。なお、僕が目下、膝の上に置いている、講談社文芸文庫版の『栗の樹』の最後のページを開くと、そこには前回、僕の引用した「信仰について」の但し書きが添えられていて、この一文が底本を異にする旨の記載がある。と言うことは、ひょっとすると、この本が最初に刊行された時、昭和四十九年(1974年)の段階では、この一文は毎日新聞社版の『栗の樹』には含まれておらず、後から、この文庫本が新しく付け足したものなのか知らん......と思いつつ、調べようともしないのは僕の、実に怠け者な所。とは言っても、この「信仰について」は小林秀雄が48歳の時のものであるし、この本の表題ともなっている「栗の樹」の方は、それから4年後の、52歳の折のものである。

と言ったのは、僕個人は人が、他人も自分も含めて、それぞれ何歳の時分に、どのような文章を書いていたのか、また、書いているのかが相当、気になるからであり、例えば30歳(=而立)の時に、これが而(しか=然)して立つ人間の文章かと、呆れ返られるような文章を書いていては、やはり駄目であり、いけない(!)と考えている側である。であるから、それは当然、40歳(=不惑)にも50歳(=知天命)にも、ひいては60歳(=耳順)にも70歳(=古稀)にも、あてはまるのであり、このような決意と共に年を取っていかないと、なかなか人は年を取ること自体が困難な事態に遭遇するのではなかろうか、と僕は感じている。その点、先刻の小林秀雄の文章は、前回の「信仰について」にしても、今回の「栗の樹」にしても、ちょうど小林秀雄が50歳前後に書いたものであった次第。

と言うことは、これから必然的に、その内の後者の「栗の樹」を取り上げて、僕は君に話を聴いて欲しい、と願っているのであるけれども、この一文自体は文庫本で、わずか1ページ半にも満たない分量であって、文字どおりの短文である。おまけに、ここには彼が「二十数年」来、いわゆる「文学で生計を立て」ながら、それが「いかにも辛い不快な仕事」であり、要は「労働」に過ぎなかったことを、やっと今なって「得心」したこと、しかも、その「原因」は彼が、と言うよりも、彼と同世代の日本人(=「私達」)が、これまで輸入し、そこから「伝承した西洋近代文学の毒の中に深く隠されている」ことが述べられていて、きっと君のような平成生まれの日本人には、ほとんど訳が分からないに違いない、昔、昔の明治生まれの日本人の繰り言が、書き記されているだけなのであった。

と、このように述べながら、なぜ僕が君に彼(彼ら?)の、この「栗の樹」という一文を紹介しようと思い立ったのか――と言い出せば、それは一つには、このような明治生まれの日本人の繰り言が、どこか僕には理解できたり、困ったことに、共感できたりするからに他ならない。まあ、この点は僕自身が、このような明治生まれの日本人を「じいちゃん」(橋本治『小林秀雄の恵み』)や「ばあちゃん」として生まれ、さらには大正生まれの日本人を「とうちゃん」や「かあちゃん」として育った、どうしようもない、定めのごときものであり、そのこと自体を、とやかく論(あげつら)っても、仕方のない話ではあるけれども、はたして君自身は僕のような、この類(たぐい=比)の人間関係から切り離された、無縁の所で生きている日本人なのであろうか。それが、二つ目の理由である。

ところで、この「栗の樹」には他愛のない、小林秀雄と彼の奥さんとのエピソードが綴られていて、一見、この一文には本当に、このような挿話の差し挟まれる必要があったのか知らん、と訝(いぶか)しく思われないではない。と書き継ぐと、いかにも小林秀雄の読者としては、失格丸出しの体(てい)であろうから、やめておくが、そもそも「私の家内は、文学について、文学的な興味などを示した事がない。用事のない時の暇つぶしに、たまたま手許にある小説類を、選択なく読んでいるが」......と、この辺りから読み直さないと、この「栗の樹」という一文は理解不能なのであって、そのような奥さんが「先日、藤村〔=島崎藤村〕の『家』を読み、非常な感動を受けた。だが、これも、彼女は信州生まれで、信州の思い出が油然(ゆうぜん)と胸に〔、〕わいたがためである」と続く。

 

彼女は、毎日、人通りまれな一里〔=約3.9キロメートル〕余りの道を歩いて、小学校に通っていた。その中途に、栗の大木があって、そこまで来ると、あと半分と〔、〕いつも思った。それが〔、〕やたらに見たくなったのだが、まさか〔、〕そんな話も切り出せず、長い事ためらっていたが、我慢が出来ず、その由〔よし〕を語った。私が即座に賛成すると、親類への手土産など〔、〕しこたま買い込み大喜びで出掛けた。数日後帰って来て「やっぱり、ちゃんと生えていた」と上機嫌であった。さて、私の栗の樹は何処にあるのか。

 

これは先刻来、紹介しておいた通り、小林秀雄の52歳の折の感慨である。単純に計算すれば、彼は明治三十五年(1902年)に生まれて、昭和五十八年(1983年)に亡くなっているから、その享年は満81歳の直前で断ち切られたことになる。そして、彼が「文学で生計を立てるようになってから、二十数年になる」と、これまた述べていたごとく、いわゆる文芸評論家としての彼の活動は、ちょうど大正から昭和へと、私たちの国の年号が切り替わる頃に始まり、この時点で足掛け30年近くに及ぶ。――と、このような数字を書き連ねているのは、いったい小林秀雄は「栗の樹」と名前を付けた、この一文の末尾に「私の栗の樹」という語を使い、そのことで、どのような「半分」を彼は頭の中に思い描いていたのか知らん。そのイメージが、なかなか僕の頭の中には、像を結び辛いからであった。

あくまで、これは結果論であるけれども、彼の生涯の「半分」に当たるのは、昭和十七年(1942年)から翌年に掛けての頃であり、この時、彼の日本古典文学論を代表する、あの『無常といふ事』の諸論稿(「当麻」「平家物語」「徒然草」「西行」「実朝」)は物されている。また、この「半分」を彼の文芸評論家としての活動の、その中間点に据えてみれば、今度は昭和三十年(1955年)あたりが彼の「栗の樹」となって、こちらは新潮社版の『小林秀雄全集』の刊行が、その分かりやすい里程標としての役目を果たしている。......と、このように考え、頭を捻ると、どうやら小林秀雄の言っている「私の栗の樹」から、どんどん君や僕は目を逸(そ)らし、その視界とは違う方へと目線を移していることになるのではなかろうか、と僕には思われるのであるが、さて君は、いかがであろう。

もちろん、一人の人間が自分の死期を、いつ、どのような形で意識し、自覚することになるのかは、まさしく人それぞれの問題であろうし、それは他人が、あれこれ立ち入るべき筋合いの問題ではないことも、おそらく確かであろう。が、それにも拘らず、逆に「死は、そういう風に、問題として現れるのではない。言わば、手応えのある姿をしています」と、このように述べていたのも、ほかならぬ小林秀雄であって、例えば「棺桶に片脚を突っ込む」という言葉は「決して机上からは生れなかった。経験が生んだものだ。これは面白い言葉だ〔、〕などと青年が言ったら滑稽でしょうが、この言葉が味わえぬような老年は不具な老年と言っていいでしょう」と、このように言い切るのが、今度は昭和四十七年(1972年)に満70歳を迎えようとする、小林秀雄の「生と死」でもあったのである。

 

吾〔わ〕が身の移り変りは、四季の移り変りとは様子の違うところがある。まるで秩序(ついで)の異なるものだと言ってもいい。私達各自が〔中略〕先ず目標を定め、「必ず果し遂げんと思はん事」〔吉田兼好『徒然草』〕に努力しないならば、この世が、しっかりした意味や価値を帯びるという事は〔、〕ないのである。そのように人の世の秩序を、つらつら思うなら、死によって完結する他はない生の営みの不思議を納得するでしょう。死を目標とした生しか、私達には与えられていない。その事が納得出来た者には、よく生きる事は、よく死ぬ事だろう。言葉の上の戯れではない。私達の心とか命とか呼ばれているものの在るがままの姿を、知性で捕えようとすれば、そんな風な言い方をするより外は〔、〕ないだけの話でしょう。

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