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魂について ――「教養」の来た道(308) 天野雅郎

宗教について語ることは、とても難しい。なぜなら、この「宗教」という語と日本人は時間的に、いまだ150年ばかりの関わりを有しているに過ぎず、まして君や僕が「宗教」という語と付き合い始めた頃には......と言い出すと、まるで君と僕が同世代の、似た若者(ヤング!)であるかのようで気が引けるけれども、この点では何と、まったく君も僕も未熟きわまりない、若造(わかぞう=若僧)であることに変わりはないのである。なにしろ、君にしても僕にしても、実は「宗教」が遡ると、英語の religion の翻訳語であることなど、どこ吹く風で、まったく独り歩きの状態を続けている時代に生まれ、育った日本人であることは、ほとんど共通であって、そこでは「旧宗教」も「新宗教」も含めて、まるで「宗教」が花盛りの体(てい)で、ムンムンとした匂いを放っているのであるから。

その意味において、このような事態は別段、宗教に限った話ではなく、おおむね君や僕が身の回りに、衣でも食でも住でも(→food, clothing, and shelter)あれこれ生活の物資が過不足なく、豊かに出揃うと、その物資の豊かさを豊かさ(rich)として、たちまち君や僕は実感することが出来なくなってしまい、それらを単に「商品」として、売り買いの対象とする以外、頭の中から関心が、ほとんど抜け落ちてしまうのが実情のようなのである。そして、それぞれの物資が結果的に、どのような成り立ちで、どのような経緯を辿り、君や僕の目の前に姿を見せているのか、そのこと自体には皆目、興味が湧かず、それぞれの物資を盲目的に貪り、ひたすら消費し、廃棄し、生産し続ける――それは一見、貧しさ(poor)と紙一重のごとき惨状を示すことになるのであるから、こわい話である。

その意味において、と僕は繰り返すけれども、ひょっとすると宗教とは君や僕が、心でも体でも、どこかに貧しさや乏しさや、要は充ち足りない、何らかの不足や不満を抱え込んでいる時が、いちばん切実に、その接近(アプローチ)を可能にし、容易にするものでもあるのかも知れないね。この点は、これまで人類が歴史上、辿ってきた、長い長い、宗教との付き合いを振り返るだけでも、まっさきに想い起こすことの叶う、宗教の特徴であり、特権であったのではなかろうか。とは言っても、それは一つ道を間違うと、君や僕の心の弱さや脆(もろ)さを慰めるような顔をして、君や僕に取り入り、付け込むものとなったり、あるいは、体の痛みや苦しみを軽減するかのごとき振りをして、もっと別の、痛みや苦しみを君や僕に与えるものとなったり、し続けてきたのでもあるから、ご用心。

ところで、はなはだ大雑把な物言いとなり、恐縮であるが、僕自身は人類が宗教と付き合ってきた、その歴史を辿り直す際に、もっとも大きな分岐点(ターニング・ポイント)が「自然神」から「人格神」へのターン(turn→tornos→旋盤)にあったと、ごく普通に考えている側である。と書き継いで、よく君が事情を分からないと、いけないから、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いておくと、まず「自然神」とは「自然の事物や自然の力を崇拝して神格化したもの」であり、これに対して「人格神」とは「神を擬人化したもので、人間的な意識や感情を有する神。日本の神話や、ギリシア神話に登場する神々の類。また、ユダヤ教、キリスト教では、絶対に正しい自己の意志を実現していく道徳性をそなえた唯一神」のことを指し示している。もちろん、どちらも近代語。

さて、いかがであろう。このようにして振り返ると、きっと君が「宗教」という名で呼んだり、そこに「神」として祭(まつ=祀)られたりしているのは、この内の後者(すなわち、人格神)であり、前者(すなわち、自然神)ではなかったに違いない。言い換えれば、おそらく君や僕は昨今、このようにして「宗教」や「神」という語を使う時、そこにイメージしているのは主として......と言うよりも、もっぱら「人格神」であって、それは「自然神」ではなかったはずなのである。なお、このような「宗教」のことを単純に、そのまま「人格宗教」とでも称することが叶えば、話は簡単なのであるけれども、これは一般に宗教学では「創唱宗教」と名付けられていて、その名の通りに創唱者(=「教祖」)と、その創唱者の教えが「教典」という形で、存在している「宗教」の呼称であった。

一方、これに対して「自然宗教」という呼称は、そのまま宗教学でも用いられているのであるが、こちらは『日本国語大辞典』の語釈のごとく、むしろ「自然発生的な原始宗教や民族宗教の総称。主として、アニミズム、マナイズム、呪物崇拝、呪術、多神教などを基本性格とする。倫理宗教に対して、また、創唱宗教に対して用いる。自然教」と述べられていて、若干、注意を要する語であることが分かる。なぜなら、たしかに「自然宗教」はラテン語で「アニマ」(anima)と呼ばれたり、ポリネシア語で「マナ」(mana)と称されたりする、ある種の不思議な、神秘的な力を信仰するものではあるけれども、その特徴は非人格的な神(=「自然神」)の崇拝にあるのであり、それが「自然発生的」なものであるのか、どうかは、それほど一概に、決め付けることが出来ないのではなかろうか。

と言ったのは、このような形で「宗教」の語義を確定し、これを一方的に「自然宗教」や「原始宗教」や「民族宗教」の段階から、より発展的な「創唱宗教」や「倫理宗教」や「世界宗教」の段階へと、人類の「宗教」は歴史的に、まさしく進歩し、進化(!)したと考える――根強い、根深い信仰心が後者の側にはあって、このような信仰心に言わせれば、あたかも前者から後者へと、人類の歴史は一義的に、確定的に歩を進めてきたかのようなのである。したがって、当然ながら「自然神」は「人格神]へと、また「多神教」は「一神教」へと、おのずから発展し(develop=包装を解く)進化する(evolve=巻物を解く)のが順序であり、その際に解(と)かれ、解(ほど)かれるべき包装や巻物は、あらかじめ準備されて、包装となったり巻物となったりしていて、あたりまえなのである。

このようなことを考えていたら......と言うよりも、おそらく僕は高校生の頃から、ひいては中学生の頃から、いっこうに発展し、進歩しない頭と心で、ほとんど似たり寄ったりの宗教観や人生観を持ち続けて、今に至るのであるけれども、つい先日、ふと僕は小林秀雄(こばやし・ひでお)の『栗の樹』というエッセイ集を、平成二年(1990年)に刊行された講談社文芸文庫版で読み直していて、そこに彼のエッセイの中でも、とびきり重要であろう、と僕の考える「私の人生観」に先立ち、ごく短い「信仰について」という一文が収められており、この一文が今回、僕の君に伝えたかったことと、なにやら通じ合っているような気がするので、これを最後に君に紹介して、お仕舞い。ちなみに、この一文は小林秀雄が、ある出版社の「宗教は人類を救い得るか」という問いに答えたものである。

 

「宗教は人類を救い得るか」という風に訊〔たず〕ねられる代りに「君は信仰を持っているか」と聞かれゝば、私は言下に信仰を持っていると答えるでしょう。「君の信仰は君を救い得るか」と言われゝば、それは解らぬと答える他はない。私は私自信を信じている。〔中略・改行〕後は、努力の深浅があるだけだ。他人には通じ様のない、自分自身にも〔、〕はっきりしない努力の方法というものがあるだけだ。あらゆる宗教に秘儀がある〔、〕というのも、其処〔そこ〕から来るのでしょう。私は宗教的偉人の〔、〕だれにも見られる、驚くべき自己放棄について、よく考える。あれは〔、〕きっと奇跡なんかではないでしょう。かれらの清らかな姿は、私にこういうことを考えさせる、自己は〔、〕どんなにたくさんの自己でないものから成り立っているか、ほんとうに内的なものを知った人の目には、どれほど莫大なものが外的なものと映るか、それが〔、〕おそらく魂ということばの意味だ、と。

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