ホームメッセージ対話について ――「教養」の来た道(310) 天野雅郎

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対話について ――「教養」の来た道(310) 天野雅郎

今回は再度、小林秀雄(こばやし・ひでお)の「生と死」からのスタートである。この一文は元来、彼が昭和四十七年(1972年)に満70歳を迎える前に行なった、講演速記が基になっていて、同年2月の『文藝春秋』に掲載されている。とは言っても、小林秀雄は明治生まれの日本人(=大日本帝国人!)であるから、当然、年齢を数えるのは数え年であったに違いなく、とすれば、この時点で彼は杜甫(ト・ホ)の「曲江」(キョクコウ)を典拠とする、あの「古稀」(→人生七十古来稀)を自覚していたはずであり、これを君のために現代日本語に訳しておくと、例えば石川忠久(いしかわ・ただひさ)編の『漢詩鑑賞事典』(2009年、講談社学術文庫)には「人生は短く、七十まで生きた者は〔、〕これまで〔、〕めったにいない。せめて生きている間、酒でも飲もうではないか」とある。

 

朝囘日日典春衣

毎日江頭盡醉歸

酒債尋常行處有

人生七十古來稀

 

朝(ちょう)より囘(かえ)りて日日(ひび)春衣(しゅんい)を典(てん)し、

毎日(まいにち)江頭(こうとう)に醉(よい)を盡(つく)して歸(かえ)る。

酒債(しゅさい)は尋常(じんじょう)行(ゆ)く處(ところ)に有り、

人生七十、古來(こらい)稀(まれ)なり。

 

ちなみに、このようにして君や僕が自分の、ひいては他人の、年齢を数える際、古くから「漢字文化圏」では『論語』を下敷きにして、前回も君に紹介しておいた「志学」(=15歳)とか「而立」(=30歳)とか、あるいは「不惑」(=40歳)とか「知天命」(=50歳)とか、このような語を使うのであるが、これは「耳順」(=60歳)を経て「従心踰矩」(=70歳)に至るまでの呼び名であり、この段階までが『論語』の命名である。そして、それは僅かな人が、まさしく稀(まれ→まら)に経験することしか叶わない、杜甫の言う「古稀」でもあった。と言うことは、これ以降の「喜寿」(=77歳)やら「傘寿」(=80歳)やら「盤寿」(=81歳)やら、はたまた「米寿」(=88歳)やら「卒寿」(=90歳)やら「白寿」(=99歳)やらは、ことごとく日本人の名付けた、日本風の祝寿表現に過ぎない。

とは言っても、このような物言いに対して、おそらく平成生まれの日本人である君は、いっこうに驚かないのかも知れないね。なにしろ、どうやら世間では昨今、この上に「百寿」までもが上乗せされた、実に「人生100年時代」(^い^ ^ら^ ^っ^ ^し^ ^ゃ^ ^い^ ^ま^ ^せ^~♪)すら構想されているらしく、そのような「およづれ」や「たはごと」が堂々と罷(まか)り通る、何とも不可解な時代を君は生きているのであるから。以下、ご参考に。――「およづれ」〔妖〕「人を惑わし、いろいろの禍殃(かおう)をもたらすようなことば。〔中略〕老い化したものが〔、〕たちあらわれる意であろう。〔中略〕妖怪の類があらわれて、人を迷わすことをいう」(白川静『字訓』) 「たはこと」〔狂・誣〕「もの狂いの状態で口走ることば。〔中略〕人に不幸をもたらす呪詛的な目的をもつ語をいう」(同上)

閑話休題。小林秀雄の「生と死」の話に戻ろう。仮に君が、この一文を読む気を起こしたのであれば、さしあたり文春文庫の『考えるヒント』が手っ取り早い。この文庫本は、かつて僕が大学生の時分(昭和五十一年→1976年)に出版されたもので、それを目下、僕は繙(ひもと=紐解)いているのであるけれども、この文庫本の『考えるヒント』は全部で4冊のシリーズになっていて、それぞれ1から4の番号が振られているが、その内の3の中に「生と死」は収められている。なお、これ以前にも単行本のスタイルで、まったく同じタイトルの『考えるヒント』は刊行されており、こちらは昭和三十九年(1964年)と昭和四十九年(1974年)のベスト・セラーであり、言ってみれば、これを文庫本という形で装いを新たにしたのが、現在の『考えるヒント』シリーズであったから、念のため。

ところで、この「生と死」には前回、僕の引用した『徒然草』を始めとして、例えば志賀直哉(しが・なおや)や獅子文六(しし・ぶんろく)という......この講演の前年(昭和四十六年→志賀直哉)や、その前々年(昭和四十四年→獅子文六)に亡くなった、小林秀雄の旧知の作家たちの「生と死」についての考え方も、触れられてはいる。が、やはり僕個人が心を惹かれるのは、もっと古い、今から600年も700年も昔を生きていた、上記の吉田兼好(よしだ・けんこう)であったり、それどころか、はるか中国の古代の、紀元前――という年代設定そのものが、まったく無意味な用語法(B.C.=Before Christ)であることは、よく分かっているが、ともあれ、その紀元前の5世紀や6世紀の頃の、あの『論語』の中の「孔子」こと、孔丘(コウ・キュウ)であったりするのが正直な所である。

なぜなのか知らん、と振り返ると、その理由が僕には、例えば『人生論ノート』において三木清(みき・きよし)の述べていた、いわゆる「近代人」(=現代人)と「古代人」との間にある、どうしようもない死生観や幸福観の隔たりを、あれやこれやと思い浮かべざるをえないが、そのことを喋り始めると、また話が、どんどん脱線を続けることになるから止めておく。その代わりに、きっと「現代人」(=近代人)という点では対等な、君も僕も理解し、納得することが出来るに違いない、有名な季路(キ・ロ)と「孔子」との問答を次に引いておこう。「季路、鬼神(きしん)に事(つか)へんことを問ふ。子曰はく、未(いま)だ人に事ふること能(あた)はず、焉(いづく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事へん。曰はく、敢(あ)へて死を問ふ。曰はく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」。

興味深いのは、この問答(questions and answers)を小林秀雄が、単なる問答として捉えているのではなく、むしろ「孔子の言葉は子路〔=季路〕の質問への回答ではない」と言い放っている点であろう。言い換えれば、これは「子路の質問の仕方への応答である。質問を〔、〕はぐらかしているのだが、質問を軽んじているわけではない。はぐらかす事によって、却(かえ)って大変〔、〕微妙に答えた事にもなっている。神や死の問題を、したり顔に否定する現代風のヒューマニストなど、孔子のなかに〔、〕いたわけはない。それなら、孔子は、人間には必至の問題として、まともに、素直に受取っていたと見なければならないでしょう。〔改行・中略〕質問を〔、〕はぐらかして、却って微妙に質問に答えたというのは、そういう意味だ。言わば態度で答えた〔、〕という味わいのある趣がある」。

さて、いかがであろう。このような言い回しに出くわすと、僕自身は結果的に、昨今の日本人が『論語』からも、それどころか小林秀雄からも、どんどん遠ざかり、すっかり誰かに「質問」をしたり、これに「応答」をしたりすることが、分からなくなっているのではなかろうか......と本気で切なくなってくるのである。そして、それが今でも――と言うよりも、きっと今であるからこそ、君や僕が小林秀雄を読んだり、読み返したりする必要性や、その必然性を産み出しているに違いない、と僕は考えているけれども、ふと気を取り直せば、それは君や僕が再度、このようにして『論語』や、あるいは冒頭、掲げておいた、杜甫の漢詩へと立ち戻り、そこで育まれてきた、人間と人間との間の、また、人間と自然との間の、大人の「対話」を学び直せばよいのだ、という励ましでもあった次第。

 

穿花蛺蝶深深見

點水蜻蜓款款飛

傳語風光共流轉

暫時相賞莫相違

 

花を穿(うが)つの蛺蝶(きょうちょう)深深(しんしん)として見え、

水に轉(てん)ずるの蜻蜓(せいてい)款款(かんかん)として飛ぶ。

傳語(でんご)す、風光(ふうこう)共に流轉(るてん)して

暫時(ざんじ)相(あい)賞して相違(たが)うこと莫(なか)れ、と。

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