ホームメッセージ台風談義 ――「教養」の来た道(314) 天野雅郎

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台風談義 ――「教養」の来た道(314) 天野雅郎

たまたま一昨日の、その又、昨日に起きた出来事を、僕は君に話したいのであるが、この一昨日(イッサクジツ)という語を君が音読するのではなく、訓読する場合、君は「おとつい」と読む側であろうか、それとも「おととい」と読む側であろうか。まあ、どちらでも構わないが――と、いつもの投げやりな物言いから話を始めると、どうやら現在、いわゆる標準語となっているのは「おととい」の方であるらしい。理由は簡単で、このようにして君や僕が昨今、標準語と呼んでいるものは、もともと「東京の山手方言に基盤を置き、各地方言に対し全国の共通語として用いられ、日本語を代表するものと考えられている言語」であったからであり、その意味において、この「一昨日」は東京の山手(やまのて)では「おととい」という形を取るのが、ごく一般的であったに違いないのである。

と、このように僕が述べているのは、今回も恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を、僕が引いているからに他ならないが、もう少し、くわしく同辞典の「おととい」の語誌を君に紹介しておくと、そもそも「おととい」は「おとつい」の変化した語であって、まず『万葉集』(すなわち、奈良時代)に登場する「おとつい」(→おとつひ)に代わる語形として、平安時代から使われ始めたのが「おととい」(→おととひ)であったようである。ちなみに、この双方の語の頭に冠せられている、最初の「おと」は「おち」の変化した語であり、これに漢字を宛がえば「遠」や「彼方」となる。また、その次に置かれている「つ」は、今度は体言(substantives)を修飾する格助詞(case particle)であり、最後の「い」は言うまでもなく、本来は「ひ」と書いて、日を意味している次第。

な~んて書き出すと、たちまち君は嫌気(いやき→いやけ)が差して、このブログを目下の時点で放り出し、スイッチ(switch=鞭)を切ってしまう虞(おそれ)も、ない訳ではなかろうから、この程度に留めておくが、どうして君や僕が日本語を、あれやこれやと説明しようとした途端(トタン)に、このような塗炭(トタン......^^;)の苦しみを味わわざるをえないのか知らん、と振り返ってみるのは無駄ではない。と言ったのは、どうやら昨今の大学生の、それどころか日本人の相当数の、いわゆる「日本語離れ」は直接的に、このような苦しみを逃(のが)れ、免(まぬが)れたい一心の、断末魔の踠(もがき)のようにしか、僕には感じられないからである。論より証拠、君は日本語の「のがれる」と「まぬがれる」の違いに興味があり、これを心底、知りたいと願っている側あろうか。

ちなみに、この点を『日本国語大辞典』で調べると、前者(「のがれる」)が「不快な状況から離れ去る意」で、これに対して後者(「まぬがれる」)は「不快な状況に遭わないで済む意」と説明されているし、その上で、前者は「文体に関わりなく用いられる日常語であった」のに対して、後者は「漢文訓読調の文章にのみ用いられた」と説明されていて、参考になる。とは言っても、これが「参考」になるのは文字どおりに、そこに参(まい)り、参(まじ)わって、これを考える側の特権(privilege=個人的恩恵)であって、そもそも参加も参入も、する気のない側にとっては一向に、何の「参考」にもなりえないのであるから辛い話である。――と、このような事態を嘆き、愚痴(グチ→moha→梵語)を並べ立てるのは、やはり大学の定期試験が終わった後の、開放感のためであろうか。

ところで、そろそろ一昨日の、その又、昨日の話を始めないと、いったい今回の話が何の話やら、君は途方(とほう=十方)に暮れるであろうから、さっそく(?)始めるけれども、実は一昨日の、その又、昨日(8月7日)の明け方に目を覚まし、いつものように机に向かうと、開け放っておいた窓から、急に涼しい風が吹き込むのを、ちょうど僕は、このようにしてパソコンのキーボードを叩きながら、感じたのであった。あれ、と思いながら、手帳のページを捲(めく)ると、そこには「立秋」の文字が燦然と浮かび上がり、輝きを発している。そうか、今日は「立秋」であったのか......さもあらん、それならば日本で一番、有名な「秋立つ日」の歌を、あの『古今和歌集』の「秋歌」の冒頭から、ぜひ君にも。――「秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞ驚かれぬる」(藤原敏行)

と思いながら、と僕は繰り返すけれども、このようにして喜んでいたのは時間(time=潮流)にすると、ほんの数分間であって、何と数分後には、この潮(うしお)は違った方向へと流れ出し、この朝、このようにして吹き始めたのが「立秋」の風であるよりも、むしろ、どうやら日本に接近している「台風」(13号→サンサン→SHANSHAN)の影響であるらしい、と僕はパソコンの「天気予報」を見て、知ってしまったのである。であるから、これは「のがれる」にしても「まぬがれる」にしても、いずれも「不快な状況」であることに変わりはなく、その折の屈辱(クツジョク=屈+辱)と言おうか、慚愧(ザンキ=慚+愧)と言おうか、それは幾ら、このようにして漢字の字面を並べてみても、収まりの付く話ではなく、しばらくの間、僕は茫然自失(『列子』)としてしまったのであった。

いやはや、いかにも大袈裟な話となり、恐縮である。が、僕に言わせれば、このようにして当日の、その日の朝に吹き始めた風を「立秋」の風として受け止めるのか、それとも「天気予報」(weather forecast)で「台風」の風として捉えるのか、これは再度、大袈裟に言うと、それこそ地球規模の、ひいては宇宙規模の、ある種の人間の生き方や、頭の使い方の問題なのであって、このような事態を無視して、蔑(ないがしろ=無代)にしてしまうと、それこそ子供の頃から、小学生の時も中学生の時も高校生の時も、ましてや大学生になっても、延々と「環境教育」の授業を受け、その名の通りの試験(examination→examen→天秤)を繰り返しつつ、それにも拘らず、まったく「環境」に配慮せず、無断で電灯やエアコンのスイッチを付け、付けっぱなしにする大学生が出現することになる。

おまけに、その後片付けを連日、僕は引き受けざるをえず、また今日も電灯の消し忘れを嘆き、また今日もエアコンの設定温度(本日→17度...... -_-;)に呆れ返り、憂鬱な思いで帰宅の途(と)に就(つ)く訳である。とりわけ、それが試験期間になるとピークに達し、普段なら図書館には見向きもせず、足を踏み入れることさえない大学生が、いっせいに試験勉強という名の俄(にわか)勉強を始め、電灯を求め、エアコンを求め、ついでに仮死状態となるための安楽椅子(easy chair)を求め、つぎつぎと「台風」のように押し寄せるのであるから、もう大変。――と、このような「不快な状態」が終わりを告げ、これを「のがれる」ことも「まぬがれる」ことも、どうやら暫くの間、次の「秋分」の頃までは許されるのであろう、と僕は胸を撫で下ろしつつ、どうぞ君にも、好い夏休みを。

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