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宗教は、お嫌いですか? ――「教養」の来た道(32) 天野雅郎

宗教は、お嫌いですか? ……と訊かれたら、君は何と答えるであろう。嫌いです、と答える側であろうか。好きです、と答える側であろうか。どちらでも構わないけれども、僕自身は多分――と、ほとんど前回と同様の書き出しで、この一連の文章(「教養」の来た道)の筆を僕は執り始めたが、今回は一転して、ご覧の通りに「好き」と「嫌い」を引っ繰り返し、いわゆるアベコベの状態で使っている。でも、このような僕の、いかにも「いい加減」な態度を、ひょっとして君が動物並みに、毛嫌い(!)をしていると困るので、少しでも僕は君に、人間並みの「好き嫌い」を説明する必要があるのかも知れない。とは言っても、おそらく君は僕に似て、実に「いい加減」な性格の持ち主であろうから、きっと子供の頃から算数の、加法(足し算)も減法(引き算)も、得意であったに違いない。

その意味において、僕の心配は無用の心配であり、日本風に言えば「とりこし苦労」に過ぎず、中国風に言えば、例の『列子』(天瑞)の中の「杞憂」(キユウ=杞人憂天)に過ぎない……とは思っていても、そこは老婆心(老爺心?)の為せる業(わざ)と、ご容赦を願って、僕は君に、そもそも動物の「好き嫌い」と人間の「好き嫌い」は、どこが、どのように違っているのか、その蘊蓄(=薀蓄、ウンチク)を傾けることにしたい。と語り出したら、何とも大袈裟な話に聞こえるけれども、要するに動物の場合には、その名を獣(けもの=毛物)と称するように、体に生えている「毛」の具合(すなわち、毛並み)によって、あらかじめ、すでに「好き嫌い」が決定されており、このような「好き嫌い」を日本語では「毛嫌い」と呼ぶ、という程度の薀蓄であるから、安心をして欲しい。

ちなみに、ここで恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を繙(ひもと)くと、どうやら「毛嫌い」という語は室町時代(と言うよりも、戦国時代)の国語辞典(『運歩色葉集』)に記載されている語であって、これが江戸時代になると「下々(しもじも)にて」(『慶長年中記』)用いられる語となり、言ってみれば、庶民の俗語(スラング)として位置づけられるに至ったようである。もっとも、その頃までの「毛嫌い」は、このようにして「鳥獣が、相手の毛なみによって好ききらいをすること」(『日本国語大辞典』)を指し示す場合にのみ、限られており、例えば『慶長年中記』の鶏(ニワトリ=庭鳥)の「毛嫌い」は、それ自体が正常(normal)であっても、君や僕のような人間が、誰かに対して「毛嫌い」をする、と言うのは異常(abnormal)であり、言語矛盾であった次第。

と言うことは、この語が次には人間に、その用法を動物から拝借し、転用され、応用される段階が訪れることになる。それが、いったい何時の頃の出来事であったのか、詳(つばひ→つまび)らかでは、ないけれども、結果的には人間(日本人?)が、お互いを「はっきりした理由もなく、ただ感情的にきらうこと。わけもなくきらうこと」(『日本国語大辞典』)を開始し、やたら繰り返すようになった典拠として、ふたたび『日本国語大辞典』は明治時代の初頭の、福澤諭吉の『学問のすゝめ』を挙げている。――と言ったら、きっと君も『学問のすゝめ』が、あの「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり」(初編)という、アメリカの「独立宣言」の引用で始まり、最後は「人にして人を毛嫌ひする勿(なか)れ」(十七編)で終わっていることを、知っていたはずである。

とは言っても、これまで君が仮に、福澤諭吉の『学問のすゝめ』を読んだことがなく、その冒頭の一文も、掉尾(チョウビ→トウビ)の一文も、まったく見聞外のことであったとしても、それは特別、現在では驚き、呆れられる事柄ではないから、心配しなくても構わない。むしろ、君が逆に「うろ覚え」の状態で、この本が人間の平等や基本的人権を、まるでナイーヴ(naïve)に主張する本であるかのように誤解しているよりも、ずっと「まし」である。が、それでも君は、おそらく福澤諭吉が慶應義塾の創立者であることを、聞いたことはあったはずであるし、それならば、その慶應義塾の経営を賄(まかな)えるほどの莫大な利益が、この本から計上されたことも、その点において、この本が私たちの国の近代を代表する、まさしくベスト・セラーであったことも、知っておいて損は無い。

ところで、ここまで僕は一向に、今回の文中に「宗教」という語を差し挟んではいないけれども、そろそろ僕の「宗教好き」や「宗教嫌い」と繋がる形で、人間の「好き嫌い」の特質について、触れておくのが順当であろう。なぜなら、すでに君に伝えた通り、もともと「好き嫌い」の中でも「毛嫌い」は、割り切って言えば、動物(animal? beast?)の特徴であり、その領分(いわゆる、なわばり)であるにも拘らず、翻って私たちが世界中の、さまざまな「宗教」の歴史を振り返ると、いつも決まって「宗教」は、どう見ても動物的な、裏を返せば、決して人間的(human)とは見なしえない「毛嫌い」を、これまで延々と、繰り返してきたように見受けられるからである。しかも、それが厖大な信者数を抱え、世界の各地で信仰されている「宗教」なのであれば、なおさら弱った話である。

もちろん、このような「毛嫌い」の原因を、単純に「宗教」の所為(せい)にするのは間違いであろうし、そこには政治や経済を始めとする、昨今では直接には「宗教」との結び付きを欠いている、別の要因が大きく影響を及ぼしている点も見逃されてはならない。ただし、そのような政治や経済も、本(もと)を正(ただ)せば、共に「まつりごと」(祭事=政事)を起源とし、等しく「経世(もしくは、経国)済民」の営みであったことには変わりがなく、何よりも私たちが、政治であれ経済であれ、ほかならぬ「宗教」であれ、それらを通じて人間の幸福……政治的な幸福や経済的な幸福や、突き詰めるならば、宗教的な幸福を追い求めてきたことは疑いがなく、言い換えれば、このような人間の幸福の、不確実で不透明な時代にこそ、そもそも「宗教」は息(anima)を吹き返すのである。

ところが、そのような「宗教」が情(なさけ)無いことに、お互いに「毛嫌い」をしてみたり、場合によっては「こりゃもう、可愛さ余って憎さが百倍、邪魔立てすりゃあ生けては置かぬぞ」(河竹黙阿彌『白縫譚』)と、あたかも歌舞伎の修羅場のような惨劇を演じてみたり、要するに、人間の「好き嫌い」――漢語で表記をすれば「愛憎」や「好悪」を、私たちに見せ付けるのは、なぜであろうか? ……と訊かれたら、君は何と答えるであろう。残念ながら、その原因、と言おうか、その理由、と言おうか、僕にも事情が、よく分からないのであるが、少なくとも、そのような排他的な行為が宗教的な行為と、裏腹の関係にあるにも拘らず、絶えず「宗教」は私たちの前で、そのような排他的な行為を宗教的な行為と表裏一体にして、演じ続け、今に至っているのが、紛れもない事実である。

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