ホームメッセージ横光利一覚書 ――「教養」の来た道(322) 天野雅郎

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横光利一覚書 ――「教養」の来た道(322) 天野雅郎

横光利一(よこみつ・りいち)のことを、つい書き出してしまったので、今回は致し方なく、その続きを覚書(メモランダム)という形で、ここに挿(はさ=挟)み込んでおくことにする。とは言っても、前回も君に告白しておいた通り、僕が彼の作品を読んだのは岩波文庫版の、せいぜい『日輪・春は馬車に乗って(他八篇)』くらいであり、今、その本の奥付(おくづけ)を捲(めく)ると、そこには昭和五十六年(1981年)とあるから、これは僕が、まだ(もう?)大学院生であった時分に出版された本であることが分かる。なお、この「奥付」という語自体も、実は「大正生まれ」の「新しい言葉」であり、そのことは『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引き、そこに『訂正増補・新しい言葉の字引』(大正八年→1919年)が典拠として挙げられているのを見ても一目瞭然である。

また、たまたま今年の晩春であったか、それとも初夏であったか、おそらく後者であったような気がするのであるけれども、僕は「古典講読」という名の授業を通じて、ひさしぶりに横光利一の「蠅」を読み直す機会(chance=偶然)に恵まれた次第。そして、この「蠅」が高校生の頃、遠い昔に「現代国語」の教科書に載っていた......らしいことなど、すっかり僕の頭の中から、きれいに消え去っていても、この短篇小説が大正十二年(1923年)の5月に『文藝春秋』に掲載され、続いて同じ月の『新小説』に発表された「日輪」と合わせて、横光利一は文字どおりの「小説家」としてのスタートを切ることになるのであり、その意味において、この二つの小説は彼の、それどころか「日本の現代小説」の、まさしく画期的(エポック・メーキング)な作品であったことは、よく知られている。

と書き継いだのは、目下、僕の膝の上に『日本の現代小説』(1968年、岩波書店)と題された、中村光夫(なかむら・みつお)の新書が乗っているからに他ならない。ちなみに、この本の「序言」に述べられているように、いまだ当時(すなわち、ちょうど今から半世紀前)は、このようにして「現代小説」という語で「大正の終りから昭和のはじめにかけて」の頃の、要は、今から百年前の小説が「現代小説」の出発点に置かれるのが常識であり、この常識は現在でも、きっと充分、通用するに違いないのであるが、ことによると君は、そこに違和感を抱く側なのかも知れないね。まあ、いつの時代にも「現代」とは、そのような、いい加減な尺度に過ぎないのであって、そのことを中村光夫も端的に「同時代人の判断の上に築かれた歴史は、砂上の楼閣に〔、〕ひとしいのです」と言っている。

ともあれ、このようにして大正から昭和への過渡期に、そこで「わが国の小説が〔、〕ひとつの大きな転機を経、そこで始まった動きは、戦争〔=十五年戦争〕による混乱と圧迫、あるいは断絶を通っても、現在も続いていると見られるので、現代を理解する手段として、この時期から書きだすことは許されるでしょう」と中村光夫は繰り返している。そして、その分、この時期の日本文学の「素地と環境」を形成していた、古い「大正文学」から話を始め、そこから新しい「昭和文学」が、どのようして身を引き離し、それにも拘らず、後者は前者に深く浸透され、依存するものであったのかを、この本は説き起こしていく訳であるが、僕自身が興味を持つのは「この時期の文学の経験した変革が、作家の内心の要求より、むしろ外部の世相によって〔、〕もたらされた」とする考え方である。

言い換えれば、この時期の「第一次世界大戦」――とは、いまだ誰も名付けていない、名付けようのない「戦争」を介して、日本は確実に、また現実に、世界と連動せざるをえない時代を迎えていたのであり、それを国際化(internationalization)と呼ぶよりも、昨今のごとく地球化(globalization)とでも称する方が、適切なのかも知れないね。なにしろ、中村光夫の言い回しを借りれば、当時は「ヨーロッパが世界の中心で、その手本を追いかけている後進国という通念は〔、〕いつか捨てられ」......そこに登場したのは「アメリカ」と「ソ連」(!)と「中国」の、驚くべきことながら、いずれも日本の周囲を取り巻く、この「三つの大きな隣国〔adjacent countries〕の力」であったからである。要するに、日本は「自分の進む道を自分で見出さねばならぬ必要に当面していました」。

そのような国内外の情勢と、そこから生じた「必要」に迫られて、私たちの国の文化は日和見(ひよりみ)的なまでに、それが文学であれ、音楽であれ絵画であれ、演劇であれ建築であれ、彫刻であれ舞踊であれ、ひいては映画(→「第八芸術」)であれ、ことごとく時代の影響を蒙るに至り、困ったことに、明(あ)け透(す)けなまでの流行をも追い求めることにもなるのであるけれども、ふたたび中村光夫の言い回しを借りると、このような「昭和の世情の〔、〕もっとも大きな特徴は、都会風俗のアメリカ化と知識階級の左翼化、つまりアメリカとロシアの影響が日常生活のなかに感じられるようになったことです。近代の日本が思想的文化的に西洋の植民地の観を呈したのは、明治のはじめからのことですが、昭和になると外国との交渉が密接になったせいか、それが露骨になりました」。

と、ここまで話が来れば、そのような傾向を文学において代表していたのが、いわゆる「プロレタリア派」と「新感覚派」の両者であり、その内の後者の、これまた代表格であったのが横光利一と、それから川端康成(かわばた・やすなり)であったことも、もはや力説するまでもないであろう。ただし、この双方の文学運動が一見、表面的には異質の、対抗する原理や主義主張(イズム)によって産み出され、導かれているかのような印象を与えるとしても、どちらの運動拠点も同じ年(大正十三年→1924年)に、同じ「文藝」という語を冠した雑誌(プロレタリア派→『文藝戦線』新感覚派→『文藝時代』)によって形成されていることは、やはり見逃されてはならない。しかも、それが印象的なことに、中村光夫の言う「地方出身」の「青年作家」によって担われ、支えられていたことも。

ところで、中村光夫は僕が学生時代に、いちばん影響を受けた批評家の一人であり、彼が亡くなった時(昭和六十三年→1988年)には、けっこう僕はショックであったのを憶えているけれども、実は彼は、これまた僕の敬愛する、哲学者の森有正(もり・ありまさ)と同年(明治四十四年→1911年)の生まれでもあり......と言い出すと、また話が、どんどん脱線を繰り返しそうなので、やめておく。でも、このような世代が子供の時分に経験した、あの関東大震災のことは、やはり君に、続けて話を聴いて貰(もら)っておくべきであろうから、続けておくが、中村光夫に言わせれば、この時、この「大震災」が東京府民や東京市民に及ぼした衝撃は、結果的に「アメリカ空軍の爆撃より或る意味では大きかった」のであり、それは直接には、何と「地方出身者の勝利」を意味していたのである。

 

東京という日本文化の中心が、過去につながる建造物をほとんど失い、焼跡に新しく設けられた(当時としては)広すぎる道路に面して、表側だけは「モダン」なアメリカ風に飾りたてたバラックを建て並べたのが大正期の終りごろの世相で、このような環境の変化は、当然〔、〕人々の生活に反映し、文学にも影響せずにはいませんでした。〔中略・改行〕震災後の東京は、この意味で戦後の東京の素描であったので、今日の東京にあるものは、大部分その原型を当時に見出せます。〔改行〕いわゆる大衆社会的な状況も例外ではないので、ただ教養の平均化は、主として綜合雑誌によって果され、テレビではなく、ラジオがマスコミの花形であり、週刊誌が雑誌社でなく、新聞社からだけ刊行されたことが現代と違うだけです。

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