ホームメッセージ南方熊楠覚書 ――「教養」の来た道(328) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

南方熊楠覚書 ――「教養」の来た道(328) 天野雅郎

目下、授業で南方熊楠(みなかた・くまぐす)を扱(あつ)かっている。と書き出したら、お察しの通りに僕が、とても熱(あつ)かったり、また暑(あつ)かったり、していることを、なんとなく君に分かって貰(もら)えるのであれば、いたって幸いである。なにしろ、この授業(「21世紀KUMAGUSU学」)を通じて、実に40年余りを経て、ひさしぶりに僕は「南方熊楠全集」と向かい合っているのであり、つらつら想い起こせば、かつて平凡社版の『南方熊楠全集』(全12巻)が刊行され始め、これが完結するのは、ちょうど僕が20歳(はたち)の折であって、それは君と同様、僕が大学に入って、二度目の「夏休み」を迎えていた頃の出来事である。その所為(せい)もあって、このようにして俄(にわ)かに、僕の語り口も「夏樫」(なつかし→『万葉集』)さを増してくるのである。

ちなみに、このようにして『万葉集』では、いわゆる「万葉仮名」を使って「なつかしい」(←なつかし)という語を、もともと「死者の衣襟に涙する意」であった「懐」(呉音→エ、漢音→カイ)という漢字を宛がわず、そこに「夏香思」とか、先刻のように「夏樫」とか、このような表記を施しているのであって、この表記の仕方自体が僕の、はなはだ趣味に合致してもいるし、僕の感性を刺激するのでもある。......と、先刻来、僕は白川静(しらかわ・しずか)の『字訓』(1987年、平凡社)の説明を借り受けているが、遡れば「今は亡き〔、〕その人を、懐かしみ〔、〕かなしむことをいう字であった」はずの語に対して、むしろ「国語では「なつく」という感情が相手に対して〔、〕はたらくことを「なつかし」「なつかしむ」という」のが順序であり、すこぶる興味を、そそられる。

裏を返せば、ここから「なつかしい」という語は「のち〔、〕回顧的な感情を主としていう語となった」のでもあり、君も僕も普段、そのような形で、この語を用いているけれども、実は「過去を懐かしむ〔、〕ということよりも、いま親しみを感ずることをいう」のが本来の、この「なつかしい」という語の語感なのである。例えば、次のような白川静の挙げている『万葉集』の用例のごとく。なお、前者の「紀(き)の国」(原文:木国)は、当然のことながら現在の、和歌山のことであるから、ご注目を。――「麻衣(あさころも)/着(け)ればなつかし(原文:夏樫)/紀の国の/妹背(いもせ)の山に/麻蒔(ま)く吾妹(わぎも)」(巻第七、1195)「佐保山(さほやま)を/凡(おほ)に見しかど/今見れば/山なつかし(原文:夏香思)も/風吹くな勤(ゆめ)」(同上、1333)

閑話休題。このようにして『南方熊楠全集』が刊行されたのは、もう今から半世紀近くも昔の、昭和四十六年(1971年)から足掛け5年の間であり、その間に僕自身は、高校生から大学生になっていた訳である。そして、この間には日本の大学で、それどころか世界の大学で、それまでの学問の内容や方法が揺らぎ出し、従来の学問区分や学問体系とは違う......そのような枠には収まり切らない、新しい学問が誕生したり、それこそ哲学のように旧態依然とした、伝統的な学問でさえもが装いを新たに、し始めたりしていたのであった。もちろん、そのような動きに連なって、次々と南方熊楠に関連する書籍が書店には並び、それ以来、買い求めた本が何十冊か、今でも我が家の本棚には眠っているし、それらの埃を払い除けながら、あれこれと「なつかしい」思いに僕は浸っている所でもある。

ただし、とりたてて言うまでも、ないことではあるが、このような世界中の、ひいては日本中の、新しい学問の動向が、当時、高校生や大学生であった僕には理解できるはずもなく、ただ僕は闇雲(やみくも)に、無暗矢鱈(むやみ・やたら)に本屋の本棚を埋め尽くす、そのような新刊書を買い漁(あさ)り、分かった風な顔をして、とりとめのない書き込みをするのが関の山であった。が、おそらく僕に恵まれた条件があったとすれば、それは偶々(たまたま)僕個人が、このような新しい学問の動向から産み出された学部(すなわち、総合科学部)に第一期生として入学し、そこで南方熊楠ばりの、例えば「比較哲学」や「比較文学」や、あるいは「比較芸術学」や「比較言語学」という名の、さながら「地球志向の比較学」(すなわち、比較文化研究)の講座に籍を置いたことであろう。

と、このように書き継いだ時点で、ひょっとすると君が僕の膝の上に、目下、鶴見和子(つるみ・かずこ)の『南方熊楠』(1981年、講談社学術文庫)が置かれていることに気が付いてくれるとしたら、それは多分、君が南方熊楠のことを相応に知っている側か、それとも、きっと君は僕の授業の受講者であるに違いない。なにしろ、この本は単行本で出版された次の年に、昭和五十四年(1979年)度の「毎日出版文化賞」を受賞しており、現在に至るまで、南方熊楠の基本文献の一つに数え上げられているし、その副題には「地球志向の比較学」が冠せられていて、実際、そのページを捲(めく)ると、そこには「比較民俗」と「比較民話」と「比較宗教」と、それから「神社合祀反対運動」の四つの「地球志向の比較学」が、まさしく「南方熊楠の仕事」として、列挙されているからである。

さて、このようにして南方熊楠に関連する書籍を読みながら、僕は目下、細々と大学生であった頃の、みずからの興味や関心との再会を果たしている訳であるが、その当時は、まさか自分自身が彼の故郷である和歌山に移り住み、そこで暮らすことになろうとは、夢にも思っていなかったけれども、こうして30年近い歳月を和歌山で過ごしていると、むしろ僕は和歌山に来るべくして来ているような、そんな都合の好い「縁」をも感じてしまうのであるから人間は勝手である。でも、そのような「縁」を探し求め、これを「研究するのが〔、〕われわれの任なり」と、その型破りな「履歴書」(矢吹義男宛書簡)の中で述べていたのも、やはり南方熊楠なのである。――「しかして、縁は因果と因果の錯綜して生ずるものなれば、諸因果総体の一層上の因果を求むるが〔、〕われわれの任なり」。

ところで、今回の覚書(メモランダム)を手始めにして、しばらく間、僕は気が向いたら、いろいろ君に南方熊楠の話を聴いて貰おうかな、と不埒(フラチ)きわまりないことを願っている。まあ、それに君が付き合ってくれるのか......どうかは、君の自由であるが、そもそも僕は南方熊楠と同様に、これまで「勉強大好き、学校大嫌い」で、ずっと一貫してきた側であり、この点に関しては少々、人後に落ちない自信もあるが、それに加えて、なお彼が生涯を通じて「学会に入るのと学位を受けることが大嫌い」であった点に関しても、まったく僕は同類であって、今回、このようにして鶴見和子の『南方熊楠』を再読し、そこに彼の生活や人生を辿り直しつつ、あらためて僕が感じ入ったのは、言ってみれば、このような不遜(フソン)も甚だしい、ある種の「なつかしさ」であった次第。

 

かれの生涯は、底抜けに楽天的な、苦行僧のようでもあった。僧といっても、ずばぬけた高僧である。ゆえに、かれの死は、示寂〔じじゃく〕とよぶのが〔、〕ふさわしい。〔改行〕さいごに、〔岡本〕文枝さん〔=熊楠長女〕のことば〔「母」〕をひきたい。〔改行〕昭和十六年〔、〕父の死と共に、遺稿書籍等、数多(あまた)の買手が訪れ始めたが、母は保存して置けば、いつの日か日の目を拝む事もあろう、と〔、〕その散逸をおそれ、頑として聞き入れなかった。〔改行〕いつまでも父の霊が書庫の中に生き続けていると信じてか、お盆が来れば迎火〔むかえび〕を焚き、第一に書庫を開き、眼鏡を添えて、「さあ、おはいりなさいませ」と挨拶する母であった。昭和三十年十一月六日〔、〕菊香る朝、〔母は〕七十七歳の生涯を閉じた。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University