ホームメッセージ霊魂について ――「教養」の来た道(334) 天野雅郎

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霊魂について ――「教養」の来た道(334) 天野雅郎

前回は再度、と言うよりも、三度も四度も五度も、このブログで君に紹介をしている、小林秀雄(こばやし・ひでお)の話になったので、今回は、その番外編である。なお、小林秀雄が生まれたのは明治三十五年(1902年)であるから、片や明治六年(1873年)に産声(うぶごえ=初声)を上げた、泉鏡花(いずみ・きょうか)との間には、ちょうど30年ほどの歳の差があって、言ってみれば、この二人の間には親子の関係にも似た、いわゆる世代(ジェネレーション)の違いが差し挟まっている。とは言っても、そのような違いを違いとして、あるいは......手交(ちがひ)や血交(ちがひ)や霊交(ちがひ)として受け止めるためには、それ相応の経験が伴われざるをえないであろうし、それが端的に、そのまま父(ち→ちち)という語の原義でもあれば、原初の姿でもあったはずなのである。

ところで、そのような小林秀雄が泉鏡花ならぬ、柳田國男(やなぎた・くにお)を引き合いに出し、おまけに、そこにはアンリ・ベルクソン(Henri Bergson)まで登場し、まさしく「お化け」についてアレヤコレヤと語っている、興味深い講演記録が遺されている。この講演記録を、僕は今年の前期の授業で『直観を磨くもの』(2014年、新潮文庫)という「小林秀雄対話集」をテキストに使った折、ついでに同年に同出版社から刊行され、やがて昨年、文庫版になった『学生との対話』も入手し、これを併せて読んだ際、再発見をしたのであった。と言ったのは、この講演記録を僕自身は、まさしく自分が「学生」であった頃、すでに文春文庫版の『考えるヒント3』(1976年、文藝春秋)を通じて、その冒頭の「信ずることと知ること」というタイトルで、一応、目は通していたからである。

とは言っても、この講演が当初、鹿児島の霧島で「信ずることと考えること」〔昭和四十九年八月〕というタイトルで、学生向けの講義として行なわれ、それが翌年、改題されて〔→「信ずることと知ること」〕『日本への回帰』(国民文化研究会発行、第10集)に収められ、そして、それを翌年、さらに小林秀雄は東京で一般向けに講演し直し、これに加筆をした上で、それを雑誌『諸君』(文藝春秋、七月号)に掲載し、これが『考えるヒント3』の中で、僕の目に触れた決定稿であったことなど、この文庫本の「はじめに」を始めとする解説を通じて、初めて僕は知るに至った次第。――「同じテーマが、講義をし、学生と対話し、講義録を作り、さらに時間を経て講演をし、改稿されることで、作品に〔、〕どれほどの深まりと表現上の工夫が齎(もたら)されたか味読いただきたい」。

と、このような七面倒臭い話を、あえて僕が君に伝えているのは他でもない。要は、このようにして一人の人間の、それが小林秀雄であれ柳田國男であれ、はたまた泉鏡花であれ、彼らの作品を読み、そこに彼らの考え方や感じ方や、ひいては立ち居、振る舞いの仕方を読み解き、読み解(ほぐ)し、それを読み取るためには、ひどく根気の要(い)る、行ったり来たりの作業が必要とされるのであって、おそらく古来、例えば「大学」という名の教育機関で営まれ続けてきた教育は、そのような「読み解き」や「読み解し」や「読み取り」の、まさしく方法(メソッド)の習得を基本とするものであり、そのために何かを読みながら、また、それ以上に何かを書きながら、その名の通りの「読み書き力」(リテラシー)を育成し、錬磨することにこそ、主眼が置かれていたことは明らかである。

でも、そのような教育方法だけでは、どうやら「教育」それ自体は成り立たない、と小林秀雄は考えているようである。論より証拠、その「考える」という語一つを取り上げても、そもそも「考える」とは「かむかふ」ことであり、それは「自分が身を以て相手と交わる」ことである、と小林秀雄は本居宣長(もとおり・のりなが)の語源説(etymology=真義論)を踏まえつつ、この講義でも、講義の後の「学生との対話」でも、くりかえし次のように論じている。――「考える」の古い形は「かむかふ」です。〔中略〕「か」は特別の意味のないことば〔=発語〕です。「む」は「み」すなわち自分の身です。「かふ」は「交わる」ということです。だから、考えるということは、自分が身を以て相手と交わる〔、〕ということです。〔中略〕考えるとは〔、〕つきあう〔、〕という意味です。

このように論じることで、この講義に小林秀雄が、まずもって「信ずることと考えること」というタイトルを宛がっていた理由も、はっきりする。言い換えれば、もともと小林秀雄にとって「考えるということは、対象と私とが、ある親密な関係に入り込む〔、〕ということなのです。だから、人間について考えるということは、その人と交わる〔、〕ということなのです。そうすると、信ずるということと、考えるということは、大変近くなって来はしませんか」......と、このように問い掛けながら、小林秀雄が持ち出しているのが、柳田國男の『故郷七十年』(昭和三十四年→1959年)であったり『山の人生』(大正十五年→1926年)であったり、やがて講演時に付け加わる『遠野物語』(明治四十三年→1910年)であったり『妖怪談義』(昭和三十一年→1956年)であったりする訳である。

その中でも一番、印象的なのは、やはり柳田國男が83歳になって、みずからの70年も昔の、14歳の頃の思い出を語っている『故郷七十年』の件(くだり=条)であろう。14歳と言えば、今で言う所の中学生であり、いわゆる「思春期」の真只中であるけれども、彼は当時、故郷の兵庫県から次兄に伴われて上京し、長兄の住む茨城県に移り住んでいたのであるが、病身のために学校には通わず、もっぱら隣家の蔵書を読み耽る日を送っていたらしい。そして、その「旧家の奥に土蔵があって、その前に二十坪ばかりの庭がある。そこに二、三本樹が生えていて、石で作った小さい祠(ほこら)があった。その祠は何だと聞いたら、死んだ〔、〕おばあさんが祀(まつ)ってあるという。柳田さんは、子供心に〔、〕その祠の中が見たくて仕様がなかった。ある日、思い切って石の扉を開けてみた」。

 

そうすると、丁度〔、〕握り拳(こぶし)くらいの大きさの蠟石(ろうせき)が、ことんと〔、〕そこに納まっていた。実に美しい珠(たま)を見た、とその時、不思議な、実に奇妙な感じに襲われたというのです。それで、そこにしゃがんでしまって、ふっと空を見上げた。実によく晴れた春の空で、真っ青な空に数十の星がきらめくのが見えたという。〔中略〕その時〔、〕鵯(ひよどり)が高空で、ぴいッと鳴いた。その鵯の声を聞いた時に、はっと我れに帰った。そこで柳田さんは〔、〕こう言っているんです。もしも、鵯が鳴かなかったら、私は発狂していただろうと思う、と。

 

引用は、今度は講義(「信ずることと考えること」)ではなく、講演(「信ずることと知ること」)の方からである。僕個人は、先刻も触れた通り、この一節を最初、講演記録として繙(ひもと=紐解)いたのであるが、その時の印象には忘れ難いものがあって、独り柳田國男のみならず、広く「民俗学」という学問への興味や関心を掻(か)き立てられたのを憶えている。けれども、それは当時、いまだ「民俗学」の何たるかも、ほとんど分からず、ましてや柳田國男の「死」と共に、その「民俗学」という学問も「死ななければならぬものがあったに違いない」と言い放っている、以下のごとき小林秀雄の発言の真意も摑み切れず、ようやく30歳を過ぎて、あるいは40歳を過ぎて、小林秀雄の説く「感受性」という語り口に、はなはだ共感を催すに至ったような為体(ていたらく)である。

 

私は〔、〕それを読んだ時、感動しました。柳田さんという人が分った〔、〕という風に感じました。鵯が鳴かなかったら発狂したであろう〔、〕というような、そういう柳田さんの感受性が、その学問のうちで大きな役割を果たしている事を感じたのです。柳田さんには沢山の弟子があり、その学問の実証的方法は受継いだであろうが、このような柳田さんが持って生れた感受性を受継ぐわけには参らなかったであろう。それなら、柳田さんの学問には、柳田さんの死とともに死ななければならぬものがあったに違いない。そういう事を、私は〔、〕しかと感じ取ったのです。

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