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魂について、ふたたび ――「教養」の来た道(336) 天野雅郎

謹賀新年。昨年の年末は「霊魂について」という一文を、二度に亘って物した所で、お開きになったのであるが、その際、僕は以前、このブログで「魂について」(第308回)と題する一文も物しており、それが頭の中から、すっかり抜け落ちてしまっていた次第。ヤレヤレ(......^^;)と言うことで、今回は再び、その「魂について」の続きである。けれども、このようにして物す、物す、と繰り返していると、なにやら物す(→物する)という語までもが不思議な響きを伴い、それこそ僕の魂と呼応し、共鳴し出すのであるから、あやしい限りである。とは言っても、おそらく君は「物する」という、この「ある動作を〔、〕それと明示しないで婉曲(えんきょく)に表現するのに用いる」動詞を、いまだ一度も口に出したり、手で書いたり、それこそ物したことがなかったのではあるまいか。

そこで以下、まず『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引き、上記の語釈の補足をしておくと、この「物する」という動詞が一番、結果的に「多く用いられた」のは「中世の仮名文学」であったらしく、それならば君が、この語を使ったことがなくても当然だよね、と僕は気を取り直している所である。実際、この語の用例に『日本国語大辞典』が挙げているのは、例えば『竹取物語』であったり『源氏物語』であったり、あるいは『土左〔=土佐〕日記』であったり『蜻蛉日記』であったり、する訳であるから、どうやら平安時代以降の、いわゆる「物語文学」や「日記文学」が好んで用い、例えば僕が、この場で「書く」という「動詞の代わり」に「物する」と言っているような、この類の「人間の肉体による基本的な動作をさす場合」に使われるのが、この言い回しであった訳である。

もちろん、そこから「物語文学」の「物語」と、この「物する」という語の親近性を導き出すのは、いたって容易であるが、むしろ僕自身が興味深いのは、その際の「物語」が「物」を客体(object)とするものであるのか、それとも主体(subject)とするものであるのか、という点である。また、どちらにしても、その際の「物語」は物を、あるいは物が、語(かた)るものであると同時に、また騙(かた=衒)るものでもあったことであり、その意味において、はなはだ「物語」は虚偽(→うそ)と真実(→まこと)の境目の、はっきりしないものであったことが分かる。であるから、おそらく「物する」という動詞は『日本国語大辞典』の挙げている用例のごとく、江戸時代になってからは「情交する」とか、さらには「横領する」とか「盗む」とかの「隠語」にもなりえたのでないか知らん。

要するに、このような言い回しを並べ、比べてみると、なにやら「物する」とは君や僕が、あまり表立って、人目に付くようにしたり、人目に触れるようにしたり、してはいけない何かの、ある種の禁忌(キンキ→タブー)の表現であったのではなかろうか。実際、上記の「情交する」とか「横領する」とか「盗む」とか、この類の事例は、分かりやすいケースであったろうが、それよりも気に掛かるのは、この語が「人間の肉体による基本的な動作をさす場合」の方であって、それを『日本国語大辞典』は「ある」とか「いる」とか、あるいは「行く」とか「来る」とか、さらには「食べる」とか「与える」とか、このような行為を「それと明示しないで婉曲に表現する」時にこそ、この「物する」が宛がわれていた事実を指摘している。そして、その内の一つが「書く」という行為であった。

さて、ここまで話が来ると、どうして僕が正月早々、君に「魂について、ふたたび」語り出しているのかも、うすうす感づいて貰(もら)えているのではあるまいか。実は僕自身は、毎年、何時の頃からであろう、年越しになると『徒然草』(第19段)の一節を声に出して、必ず読み直すことにしていて、昨年から今年への年越しに際しても、また本棚から『徒然草』を引っ張り出し、これを音読することを繰り返したのであるが、この点に関しては以前、このブログで君に、似たようなことを伝えた記憶が残っているので、さっそく探してみると、ありました、ありました、それは今から3年前の、まさしく年越しの折、僕は君に「灯を点す夫(おとこ)たち」(第218回)と題して、この『徒然草』の一節を引用していたのである。日付は、2016年12月28日とある。念のために、引いておく。

 

年の暮れ果てて、人ごとに急ぎあへる頃ぞ、またなく、あはれなる。......御仏名(おぶつみやう)荷前(のさき)の使(つかひ)立つなどぞ、あはれに、やんごとなき。......晦日(つごもり)の夜は、いたう暗きに、松ども灯(とも)して、夜半(よなか)すぐるまで人の門(かど)たたき走り歩(あり)きて、何事にかあらん、ことごとしくののしりて足を空(くう)に惑ふが、暁(あかつき)より、さすがに音なくなりぬるこそ、年の名残も心細けれ。亡(な)き人の来る夜とて霊(たま)祭るわざは、このごろ都にはなきを、東(あづま)の方には、なほすることにてありしこそ、あはれなりしか。かくて明けゆく空の景色、昨日に変りたりとは見えねど、ひきかへ珍しき心地ぞする。大路の様(さま)松立てわたして、花やかに、うれしげなるこそ、また、あはれなれ。

 

僕が毎年、年越しに当たって『徒然草』の、この一節を音読する理由は以上の通りである。とは言っても、もう近年、ほとんど正月の、正月らしい雰囲気が無くなってしまった時代に生まれ、育った君には何のことやら、訳が分からないと困るから、あえて付け加えておくけれども、そもそも正月が来て、君や僕が「あけまして、おめでとうございます」と言い合えるのは、なぜなのであろう。――簡単である。それは、この挨拶(アイサツ)が表現しているように、まず空が晴れ、明るくなるのが条件であって、これを日本語では「あける」と言う。だから、そこに漢字を宛がえば、開けるとなったり、明けるとなったり、空けるとなったりする訳である。当然、曇っていても、雨が降っていても、はたまた雪が、ちらついていても、この「あける」という行為には変わりがなく、同じである。

ちなみに、この「あける」という語には自動詞と他動詞があって、前者の場合、それは「物事の、ある期間が終わって、次の新しい状態になる」こと、と『日本国語大辞典』は説明していて、それが更に「① 夜が終わって朝になる。明るくなる」と「② 時が経過して、年月日や季節が〔、〕あらたになる。次の年になる」とに分かれている。要するに、このような二つの「あける」が同時に、その刹那に飛来するのが、年越しの意味なのであって、これを「おめでとうございます」と言わなくて、何と言ったら、よいのであろう。ただし、そのためには君や僕が、もう一方で、例えば「へだてや、おおいなど、ふさいであるものを除く。閉じてあるものを開く」とか、あるいは「そこを占めているものを取り除く」とか、このような「あける」という語の他動詞が、そこに伴われる必要がある。

言い換えれば、このようにして「あける」という語の他動詞と、自動詞を重ね合わせることで、はじめて「あけまして、おめでとうございます」というフレーズは、成り立つ訳である。そして、そのためには他動詞の側で、君や僕が「あける」という行為を、営まなくてはならないのと同時に、もう一方の自動詞の側でも、この「あける」という状態が産み出される必要がある。しかも、それは一見、文字どおりに自動に、いわゆる自然の側が自分で、動いているかのように見えても、そこに人間は古来、もう一つの主体を発見してきたのであった。それを『徒然草』は、結果的に「亡き人」や「霊」(たま→たましい)と呼んでいるけれども、おそらく、このような言い回しによって日本語の、あの「おめでとうございます」(→愛甚)も生き生きと、その命を呼び覚ますに違いないのである。

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