ホームメッセージ德冨蘆花覚書 ――「教養」の来た道(339) 天野雅郎

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德冨蘆花覚書 ――「教養」の来た道(339) 天野雅郎

德冨蘆花(とくとみ・ろか)の『自然と人生』のページを捲(めく)ったのは、もう今から何年前のことなのか知らん、と振り返りつつ、我が家(=天野図書館)の本棚から岩波文庫版の『自然と人生』を引っ張り出し、その奥付(おくづけ)を見ると、そこには昭和六十三年(1988年)の日付があるから、おそらく、その時分なのであろう。ちなみに、この日付には第67刷(!)発行の記載が添えられている。と言うことは、それから30年余りの時が経ち、この、日本近代文学史上、と言うよりも、おそらく日本文学史上で最も多くの読者を獲得した随筆の一つであろう、この『自然と人生』は目下、いったい第何刷にまで達しているのやら、と余計な興味まで湧いてきて、調べてみると、何と、このベスト・セラーは現在、岩波文庫の新本では、入手が不可能なようなのである。ガ~ン。😨

ついでに、この『自然と人生』にはワイド版もあって、そちらも確か、僕は持っているはずなのであるけれども、今は探す気が起きないので、やめておく。でも、このワイド版の方も目下、どうやら絶版のようなので、とうとう日本文学史上の最高の名作(マスターピース)の一つを、少なくとも、随筆(エッセー)の一つを、もう今の日本人は見向きもしないらしい。と言うことは、さしずめ今の日本人には「自然と人生」という名の、このような哲学的テーマがピンと来ず、すっかり忘れられてしまったのかも知れないね。と嘆きながら、かつて同じ名の、この『自然と人生』という一冊が「ちくま哲学の森」の中に含まれていたのを、僕は想い起こしたので、調べてみると、こちらは幸い、現在も筑摩文庫で新本が買えるようなので、やれやれ......と僕は先刻、胸を撫で下ろした所である。

ところで、このようにして僕は、どんどん德冨蘆花の話を進めているが、ひょっとすると君には、この作家の名前自体が縁遠い、ほとんど縁(エン→音読)も縁(ゆかり→訓読)もない、可能性もない訳では、なかろうから、ここで次に、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いておくので、ご一読を。――「小説家。本名〔・〕健次郎〔けんじろう〕。蘇峰〔そほう〕の弟。同志社に学ぶ。キリスト教に入信。明治二二年(一八八九)「民友社」に入社。『不如帰(ほととぎす)』で文壇に〔、〕その地位を築いた。人道主義と清新な作風で社会問題への関心も深く、注目された。また、同四〇年から半農生活にはいり〔、〕文壇外の作家として特異な地位を占めた。晩年はキリスト教的解脱を求めるようになった。著書『自然と人生』『思出の記』『黒潮(こくちょう)』など」。

さて、いかがであろう。少しは彼、蘆花こと德冨健次郎のことが、君の身近になったのであれば幸いである。が、この作家の名前自体は、おそらく君が高校生の頃、日本史の教科書や、あるいは日本文学史の副読本あたりで、かならず目にしていたはずの名前であって、その意味において、彼は日本近代文学史上、忘れられてはならない、欠くことの出来ない有名な作家でもあれば、まさしく大物(おおもの)なのでもあった。ところが、その大物が結果的に、君や僕には小物(こもの)のように映ったり、小物のような扱いしか、受けていなかったりするのであれば、それは端的に、彼が上記の『日本国語大辞典』の説明のごとく、かつて「文壇に〔、〕その地位を築いた」にも拘らず、やがて「文壇外の作家として特異な地位を占めた」ことが、その主要な理由であったに違いないのである。

言い換えれば、このようにして日本の「文壇」......と書き継いでも、この類の古色蒼然(コショクソウゼン)とした物言いが、さっぱり君には珍糞漢糞(チンプンカンプン)であろうから、あえて付け加えておくけれども、それは日本の近代文学が、その名の通りの「近代文学」(modern literature)として形成された時、そこに当時の「作家・批評家などの社会。文筆家の社会。文学界」(『日本国語大辞典』)として誕生したものであり、それは要するに、日本の近代文学の場合は「自然主義」という名で呼ばれる、例えば田山花袋(たやま・かたい)や島崎藤村(しまざき・とうそん)や、あるいは徳田秋声(とくだ・しゅうせい)や正宗白鳥(まさむね・はくちょう)や、このような小説家たちによって作り上げられた、ある種の同業者組合と、その利権的制度の総称であった訳である。

裏を返せば、彼らが一端(いっぱし)の作家となり、一角(ひとかど)の作品を物するよりも早く、むしろ文壇以前の文壇において威勢を誇っていたのは、例えば尾崎紅葉(おざき・こうよう)を中心とする、あの「硯友社」の面々であったが、この日本最初の文学結社は不運にも、尾崎紅葉の早世によって、それこそ文壇以前の文壇に留まらざるをえなかった。であるから、このようにして明治三十六年(1903年)に数えの、わずか36歳で尾崎紅葉が亡くなった後、一挙に愛弟子の、泉鏡花(いずみ・きょうか)や小栗風葉(おぐり・ふうよう)は冷飯(ひやめし)食いの側に回らざるをえなかったし、また、反対に上記の「自然主義」の面々は、たちまち「今に、俺だって豪(えら)くなる〔中略〕日本文壇の権威になって見せる」(田山花袋)と、みずから奮い立つことになったのである。

このようにして振り返ると、尾崎紅葉が生まれたのは慶応三年の年末であり、これを西暦に直すと1868年(=慶応四年+明治元年)になるから、もう一方の田山花袋の生年が明治四年であり、これも西暦に直すと1872年の年頭となって、その間には、たかだか丸4年の歳月が介在しているに過ぎない。なお、後者の側には国木田独歩(くにきだ・どっぽ)や、先刻、名前を挙げたばかりの、徳田秋声や島崎藤村や、ひいては樋口一葉(ひぐち・いちよう)が属しているし、逆に尾崎紅葉と同じ年や、その次の年に産声を上げたのが、例えば夏目漱石(なつめ・そうせき)や幸田露伴(こうだ・ろはん)や正岡子規(まさおか・しき)や、さらに山田美妙(やまだ・びみょう)や北村透谷(きたむら・とうこく)や、そして今回、僕が君に話を聴いて貰(もら)っている、德冨蘆花でもあった次第。

と言った辺りで、そろそろ紙幅も尽きようとしているので、この話は再度、次回に引き継がざるをえないが、そもそも德冨蘆花が一旦、その代表作の一つである『不如帰』によって、おまけに、それは日本近代文学史上、稀に見る、ベスト・セラーでもありえたけれども、まず彼が「文壇に〔、〕その地位を築いた」にも拘らず、やがて「文壇外の作家として特異な地位を占めた」ことには、このような世代(ジェネレーション)の問題が背景となっていることを、さしあたり君には知っておいて欲しい。その上で、なおかつ彼が生涯、このような「文壇外の作家として特異な地位を占めた」ことの、その経緯(経→縦糸、緯→横糸)について、いろいろ僕は君に話を続けることが叶えば有り難い。とりわけ、この「作家」という名の、集団に付和し、雷同してはならない人間の、生き方に関して。

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