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宗教も教育も、いまだ若かった頃 ――「教養」の来た道(34) 天野雅郎

前回と同様、今回も森有礼(もり・ありのり)の話から、筆を起こしたい。――これまで僕は、この一連の文章(「教養」の来た道)において、いろいろ君に、森有礼に纏(まつ)わる話を聴いて貰(もら)いたい、と願っていたのであるが、なかなか上手い話の糸口が摑(つか)めず、ついつい先延ばし(と言うよりも、先送り)にしてきたのが正直な所である。彼の生涯については、前回、簡単な紹介を済ませておいたから、話を振り出しに戻す必要は、ないであろう。が、そもそも彼が人生の……とは言っても、すでに述べた通り、それは数えの43歳で、満年齢に直せば、わずか41歳の途上で、俄(にわか)に断ち切られざるをえなかった生涯であるけれども、そのような人生の、どの程度の時間を、彼は君や僕の生きている、この「日本」という国で、過ごした人物なのであろうか?

と言い出すと、いかにも持って回った、遠回しの質問の仕方を、僕は君にしているようで、いささか気が引けるのであるが、要するに――ここで僕が君に伝えたいのは、君や僕のような「日本人」が一口に「日本人」と呼ばれてはいても、それぞれの生涯の、どの程度の時間を、この「日本」という国で過ごすのかは千差万別であり、多種多様であって、場合によっては、その人生の多くの、あるいは、ほとんどの時間を、逆に「日本」ではない、別の国(すなわち、外国)で過ごす「日本人」は幾らでもいる、という点である。もっとも、僕自身は別段、君が「日本人」でなくても、いっこうに構わないし、僕自身も実際、僕のような「日本知らず」(^^;)が堂々と、自分自身を「日本人」と称しても、よろしいのか知らん、と不安で、不安で、眠れない夜を過ごすことも、しばしばである。

まあ、その点では僕のような「日本知らず」とは違い、公然と「日本男児」を自称することのできる「日本人」も、いるようではあるし、そのような「日本男児」(これって、ニホンダンジと読むの? それとも、ニッポンダンジと読むの? ついでに言えば、日本男児はいるのに、日本女児はいないの? ひょっとして、それが「やまとなでしこ」と呼ばれたりしているの?……)に肖(あやか)ろうとして、小学生から大学生まで、それどころか、いっぱしの大人でさえもが「日本男児」に興味津々の、ご時世であるのなら、僕のように昨今の国際化社会や、グローバリズムの嵐の中で、もはや「日本人」は風前の灯火(ともしび)に過ぎない、と恐れ戦(おのの)いている人間――言ってみれば、旧態依然とした「日本知らず」は、その居場所が見つからなくても、当然の事態であろう。

でも、このような事態が日常的なものとなり、君や僕の周りで常態化をしている、そのような段階においては、いざ知らず(正しくは、いさ知らず)……それを今から、百数十年前に遡って、その身に引き受けていたのが実は、前回と今回の主役を務めている、森有礼であったのであれば、彼を見る君の目も、少しは違ってくるのではなかろうか。という訳で、今回も再度、森有礼の生涯に立ち入っておくと、彼は郷里(薩摩藩)の藩校(造士館)で、まず漢学を学び――と書いて、このような書き振りが君に、いかにも古臭い感じを与えるのであれば、それを中国学(Sinology)や中国研究(Chinese Studies)と置き換えても、構わないけれども、そこから彼は一転、今度は同藩に新設されたばかりの洋学校(開成所)に入り、ヨーロッパの科学や技術や、とりわけ英語を、学んだ次第である。

この時点が、私たちの国の年号で言えば、元治元年、西暦に直せば、1864年のことであり、いわゆる「明治維新」の4年前に当たる。そして、その翌年(慶応元年)に彼は、藩の密命(!)を受け、最初の渡航先であるイギリスのロンドンへと旅立つことになる。目的は、当然、留学であり、彼の留学先はロンドン大学、正確に言えば、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)であった。と言うことは、この時点での彼は、いまだ数えの19歳であり、満年齢に直せば、たかだか17歳に過ぎず、今の君や僕に即して言えば、高等学校の2年生の時点である。しかも、それが単に個人の、プライヴェートな留学(すなわち、私費留学)ではなく、あくまで藩命による留学であり、その意味においては、オフィシャルな留学(すなわち、国費留学や公費留学)であった点も、見逃されてはならない。

とは言っても、君も知っての通り、この頃の私たちの国は「鎖国」(isolation=孤立)の状態に置かれ続けていたのであるから、当然、あらゆる種類の海外渡航が国禁(!)とされていたのであって、結果的に彼(森有礼)を始めとする留学生たちは、その国禁を犯し、自分自身の生涯を賭(と)しながら、文字通りの決死の覚悟で、海外渡航に臨んだことになる。ちなみに、この時の留学生は彼を含めて、総勢で19名に上り、その名を「薩摩学生」とか「薩摩スチューデント」(Satsuma Students)とか、称されているけれども、ひょっとして君が、僕に似た映画好きであるのなら、この2年前(1863年)に彼らに先立ち、同じイギリスのロンドンへと旅立った、こちらは長州藩(現在の山口県)の、五人の留学生を主人公にした映画(『長州ファイブ』)のことも、知っていたに違いない。

彼らの方は、その名を「長州五傑」とか、映画の表題の通りに「長州ファイヴ」(Choshu Five)とか、呼ばれているが、このようにして当時、長州藩であろうと、薩摩藩であろうと、それどころか、幕府自体であろうと、いずれにしても若い、いまだ10代や20代の青年たち……それでいながら、彼らの中には密かに、すでに暗殺の経験まで積んでいる、幾人かの殺人犯(^^;)も含まれていたのではあるが、ともかく、そのような波瀾万丈の、前途有望な若者たちによって、政治であれ、経済であれ、学問であれ、私たちの国が「近代化」を推し進めるために必要な、不可欠の道具立てと、その到達目標――例えば、富国強兵や殖産興業や、あるいは文明開化といった標語(スローガン)は、その礎(いしずえ)を定められるに至ったのであり、このこと自体、特記されて然るべき事柄であろう。

その中でも、とりわけ「近代化」の中枢神経(central nerves)として位置づけられ、その意味においては、君や僕の体の中の、脳や脊髄にも比すべき、教育理念や教育制度の定礎者となったのが、他ならぬ森有礼であったことは、いくら強調しても、し過ぎることはない。おまけに、その留学体験の渦中において、彼が大学生の夏季休暇(夏休み!)を利用して、イギリスからロシア(「魯西亜」)へと、ひと夏の旅を試みた際、その道中日記(『航魯紀行』)の中に私たちの国で、最初の「宗教」の用例が顔を覗かせていることも、決して偶然ではあるまい。なぜなら、現在の私たちが呑気に、無頓着に考えているほど、宗教と教育は別々のものではなく、それどころか、ほとんど両者は表裏一体のものであり、不即不離のものであったから。「此国には種々の宗教あり。……」(8月24日)

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