ホームメッセージ明治深刻悲惨小説 ――「教養」の来た道(341) 天野雅郎

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明治深刻悲惨小説 ――「教養」の来た道(341) 天野雅郎

深刻(シンコク)小説だとか、悲惨(ヒサン)小説だとか、このような語を並べてみても、いっこうに君にはピンと来ないであろうし、それどころか、ひょっとすると君には、この二つの語自体が、まったく初対面の語であったのかも知れないから、まず恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引いて、それぞれの語釈を紹介することから話を始めよう。と言う訳で、さっそく調べ出したら、あれあれ、深刻小説の項なら、あるけれども、そこには悲惨小説も一括りにされていて、次のような説明文が添えられているではないか。――「日清戦争後、広津柳浪〔ひろつ・りゅうろう〕を中心に流行した、社会の悲惨で異常な〔、〕できごとを題材にした小説。明治二八年(一八九五)に発表した柳浪の『変目伝(へめでん)』『黒蜴蜒(くろとかげ)』などが〔、〕その代表作品。悲惨小説」。

広津柳浪か、なつかしいな......とは言っても、さっぱり君には話が通じないであろうから、やめておく。でも、このようにして深刻小説や悲惨小説の話をする時に、それが広津柳浪という名の、この作家のことばかりに説明が集中するのは、それ自体、間違ってはいないけれども、いささか僕個人は困った感じがするのである。なにしろ、この類の小説は人間の「死、貧窮、病苦など、人生の悲惨、深刻な暗黒面の描写に重点をおいた」ものであり、それが上記の『日本国語大辞典』の語釈のように、とりわけ「日清戦争後の数年間に流行した」ものである以上、そこには日清戦争直後の明治二十八年から始まって、そのまま「三十年代にまで〔、〕ひきつづき」この傾向は受け継がれた訳であって、それを単に、広津柳浪という一人の作家の話に限定するのは、やはり範囲が狭過ぎるのである。

と、このように書き継いで、僕自身が参照しているのは前回、君に紹介しておいた、あの「大辞典」繋がりの『日本近代文学大事典』(1977年、講談社)の第四巻(事項)である。そして、この「大事典」に従えば、そこには広津柳浪の他にも、例えば前田曙山(まえだ・しょざん)や北田薄氷(きただ・うすらい)や、あるいは田山花袋(たやま・かたい)や江見水陰(えみ・すいいん)が登場し、おまけに、これまた前々回、名前を挙げておいた、泉鏡花(いずみ・きょうか)や小栗風葉(おぐり・ふうよう)や、それどころか、そこには樋口一葉(ひぐち・いちよう)や永井荷風(ながい・かふう)の、いわゆるビッグ・ネームまでもが顔を揃えている。――要するに、このようにして辿り直すと、まさしく日清戦争直後の時代とは、その名の通りの「深刻小説の季節」でもあった訳である。

なお、このようにして「深刻小説の季節」が到来するに当たり、その時、ちょうど「批評壇にあって、この傾向を歓迎し、文壇に新生面をひらく〔、〕としたのが田岡嶺雲〔たおか・れいうん〕であった」と『日本近代文学大事典』は付け加えていて、さすがに「大事典」ならではの補足である。ちなみに、そのような「深刻小説の理論的支柱」でもあった、この批評家は、単なる批評家と言うよりも、むしろ思想家であって、その「数奇なる思想家の生涯」は家永三郎(いえなが・さぶろう)の同名の著書(岩波新書)以来、とは言っても、それは今から、もう60年以上も昔(1955年)のことにはなるが、その「人と思想」が再発見されている。が、困ったことに君や僕は、この稀代の思想家の先見性や、その独創性について、皆目、と言っても構わないほど、理解していないのが実情である。

なぜなら、という言い方をするのが、この場に相応しいのか......どうなのか、よく分からないけれども、実は田岡嶺雲の著作は生前、明治三十八年(1905年)に出版される予定であった『壺中観』以降、次々と発禁(=発売禁止)の処分を受けたからであり、そのような彼の著作が再度、日の目を見るのは、その没年(大正元年→1912年)から40年余りを隔てた、上記の1950年代の中盤のことであった。そして、はなはだ驚くべきことながら、やがて1960年代の末年(1969年→昭和四十四年)になって、全7巻で刊行予定の『田岡嶺雲全集』(法政大学出版局)は、目下、今年(2019年→平成三十一年)の年頭に最後の、とうとう第7巻が出版されることになっており、これで丸々50年(厳密に言えば、51年)を費やした、画期的な全集編纂事業も終わりを迎えようとしている、らしいのである。

とは言っても、それは1冊が、安くて1万円台の、高くて2万円台の、とうてい僕のような安月給(スモール・サラリー)の大学教員には、手の出る代物ではなく、せいぜい僕は昔、やっと手に入れた旧版の『田岡嶺雲全集』(第1巻)のページを捲(めく)りながら、早く安くなれ、早く安くなれ、と呪文(?)を唱えるのが関の山である。ところが、そのような折に偶々(たまたま)購入した、講談社文芸文庫編の『明治深刻悲惨小説集』(2016年)を開き、読んでいて、そこに選者(斎藤秀昭)の解説(「文学者の使命」)が収められているのを発見し、僕は喜んでいる所である。なぜなら、そこには以下のごとき「悲惨小説」の成立事情や、それを理論的(すなわち、批評的)に支えた、田岡嶺雲の功績について、僕にとっては願ったり叶ったりの叙述が差し挟まれていたのであるから。

 

田岡嶺雲の〔中略〕先見性に富んだ文章の価値は、現代の資本主義社会が続く限り、決して色褪せることのないものである。〔中略〕しかし〔、〕日本近代文学研究の世界においても、未だに〔中略〕彼の仕事の真価が充分に認識されているとは言えない。悲惨小説の新しさと〔、〕その意義について鮮明にしたのも嶺雲であり〔中略〕日清戦争を背景にして、資本主義の急速な発展と〔、〕それに伴う貧富の格差の拡大・露呈という現象が生まれ、その社会矛盾と対峙し、硯友社の遊戯的〔、〕趣向的傾向の克服を目指そうとしたのが、他でもない、当時〔、〕一様に「悲惨小説」と呼ばれていた作品群であった〔......〕。

 

最後の「硯友社」(けんゆうしゃ)の辺りは、少し説明が必要なのかも知れないね。言うまでもなく、この日本最初の文学結社は前々回、これまた君に紹介しておいた通り、あの尾崎紅葉(おざき・こうよう)をリーダーにして、明治の二十年代から三十年代に掛けて、この国の文学運動をリードする役目を果たしていたのであるが、残念ながら、その活動は結果的に、尾崎紅葉の早世によって終止符が打たれ、それ以降、時代は「自然主義」という名の、いかにも日本的な、大雑把な原理原則(principle→〇〇ism)を勝者の側に選び取ることになる。そして、その当時、このような「過渡期」(transition)に際し、やがて勝者とも、また反対に、敗者ともなる若者たちの中から、それぞれの「自己変革」を通じて産み出された「青年文学」が、この「悲惨小説」なのであった。以下、次回。

 

硯友社の内部や〔、〕その周辺にいた若手の新進作家たちによる内側からの改革(自己変革)によって悲惨小説という画期的な「新現象」は登場して来たのである。それは単に、社会の暗部への視野の拡大、文学的素材の拡充といったものではなく、日本の近代文学を担うにたる作家は一体〔、〕何をすべきなのか、という真摯な自己探求の成果であったのだ。〔中略〕言うなれば、悲惨小説は青年の情熱と活気とによって支えられた〈青年文学〉なのであった。〔中略〕悲惨小説は〔、〕その結果、表面的〔、〕風俗的であった硯友社の写実を問題提起的〔、〕人生論的なレベルにまで押し上げることとなった。

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