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明治観念社会小説 ――「教養」の来た道(342) 天野雅郎

深刻小説だとか、悲惨小説だとか、よほど君が高校生の頃、真面目(まじめ)に日本文学の勉強をしたのでない限り、おそらく目にしたり、耳にしたり、したこともなかったであろう、子難しい語を使い、僕は前回、明治の二十年代の末年から三十年代の末年へと至る、要は......この国の二つの「戦後文学」に関して君に話を聴いて貰(もら)った次第。言い換えれば、それは厳密に言うと、まず日清戦争の終わる明治二十八年(1895年)から始まって、今度は日露戦争の終わる明治三十八年(1905年)へと繋がる、ちょうど10年ばかりの間の日本文学の歴史に他ならず、この時期が「わが国の近代小説史のなかでも、特異な一時期をなして」いることは、もう今から65年前に、中村光夫(なかむら・みつお)が『日本の近代小説』(1954年、岩波新書)の中で次のように論じていた通りである。

 

日清戦争〔の戦後〕から〔中略〕日露戦争〔の戦後〕までの〔、〕ほぼ十年間は、わが国の近代小説史のなかでも、特異な一時期をなしています。〔中略〕この時期の小説は〔中略〕小説それ自体の発達史上から見ると、さまざまな可能性が芽生えた興味ある過渡期を形成しています。〔中略〕明治文学自体を〔、〕ひとつの大きな過渡期として見れば、この過渡期のなかの過渡期は、その未熟な拡がりのなかに前の時代が考え及ばなかった多くの問題を提起し、後代が芸術的完成のために摘みとってしまった芽を〔、〕のばそうとしていた時期とも考えられます。

 

と、このように述べながら、その「過渡期」(transition)を代表するものとして、例えば「川上眉山〔かわかみ・びざん〕、広津柳浪〔ひろつ・りゅうろう〕、泉鏡花〔いずみ・きょうか〕、小栗風葉〔おぐり・ふうよう〕など硯友社の新人たちのつくりだした観念小説、または深刻小説。小杉天外〔こすぎ・てんがい〕、初期の永井荷風〔ながい・かふう〕などが代表し、ときには風葉なども〔、〕これをとり入れたゾライズム。德冨蘆花〔とくとみ・ろか〕、内田魯庵〔うちだ・ろあん〕などから木下尚江〔きのした・なおえ〕にいたる社会小説などが〔、〕その主な潮流を形づくるものです」と、具体的な小説家の名を中村光夫は挙げていて、それが前回、君に紹介した、深刻小説や悲惨小説や、さらに今回、タイトルにも掲げておいた、観念小説や社会小説である点、一目瞭然であろう。

ちなみに、この内の「観念小説」については、すでに僕は以前、君に「泉鏡花論」(第二回・第三回)と題して、このブログ(第326回・第327回)でも説明をしているし、その際、前掲の中村光夫の一文も、いささか表現を変えて、引用を済ませていた訳である。ただし、その折には僕自身、そこから続けて、さらに德冨蘆花の話や、彼が当時、身を置いていた、歴史的で文学的な状況について、あれこれ君に話を聴いて貰うことになろうとは、予想もしていなかったのであって、その分、自分の書いた文章を久々に読み返してみて、まずまずだな、と思う反面、まだまだだな、と感じる面も多い。そこで、繰り返しにはなるけれども、ふたたび『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「観念小説」の語釈を掲げておく。――「作者の抱いている〔、〕ある観念を作品中に明白に出した小説」。

さて、いかがであろう。これで「観念小説」という語の由来が、きっと君は理解できたに違いない。な~んて、虫の好い話は(......^^;)ないよね。であるから、この後に続けて、さらに同辞典は「特に明治二〇年代末に流行した、個人と社会的倫理との矛盾から生ずる悲劇などを主題とした小説を指す。泉鏡花の『夜行巡査』『外科室』、川上眉山の『書記官』などが有名」と付け加えているのであり、この際の「観念小説」とは、端的に当時の、いわゆる社会問題や倫理問題や、ひいては労働問題をテーマとした小説である、と受け取って構わないし、その意味において、この「観念小説」において扱われるのは、ある種、理念的で理想的な社会の有り様でもあったことになる。その点、そもそも「観念小説とは〔中略〕写実小説にたいして〔、〕いわれた言葉で」ある、と中村光夫も述べている。

この点を、もう少し、彼の『明治文学史』(1963年、筑摩叢書)で補足しておくと、このようにして「日清戦争後の我国の社会は、近代国家としての様相が〔、〕ようやく整い、産業〔、〕交通の面で急速な進歩をとげると同時に、資本主義の発展にともなう社会の矛盾も〔、〕ようやく世人の注意をひくようになるので、社会問題、労働問題は〔、〕このころから一部の人々の関心の対象になります。〔中略〕文学界にも〔、〕このころから新しい傾向が顕著になってきました」。――と述べて、中村光夫が取り上げているのが、先刻の泉鏡花や川上眉山や、あるいは広津柳浪や樋口一葉(ひぐち・いちよう)であり、当時、このようにして彼ら、彼女らの作品が、まず「社会の矛盾を若々しい情熱で剔抉(てっけつ)した小説として注目」されたものであることを、君や僕は忘れてはならない。

その意味において、おそらく今から110年余りも、また120年余りも昔の、この「過渡期」の小説群が、それを「深刻小説」と呼んでも「悲惨小説」と称しても、はたまた「観念小説」と呼んでも「社会小説」と称しても、いっこうに構わないけれども、いずれにしても彼ら、彼女らの作品を、今も君や僕が手に取り、読む必要があるのだとすれば、それは君や僕が彼ら、彼女らと同じ、まったく同じ問題と向かい合い、向かい合わざるをえない時代(すなわち、過渡期)を生きているからに他ならない、と僕は思うけれども、さて君は、いかがであろう。なにしろ、あの「樋口一葉の小説も、貧苦や因襲の生む悲惨の直視、その犠牲者にたいして作者が示す無言の共感などで、社会の不正にたいする憤りが、彼女自身の貧困の体験に〔、〕うらづけられて、作者の胸に燃えている」のであるから。

ところで、このようにして振り返ると、ほとんど前回の「深刻悲惨小説」の話と、今回の「観念社会小説」の話は、似た話に行き着くことになる。実際、上記の引用の後、中村光夫は彼ら、彼女らの「小説は、従来の客観的写実を旨とした硯友社の作風から一歩すすんで、作者が〔、〕ある思想を持ち、それを基調として小説を構成している〔、〕という意味で観念小説と呼ばれ、彼等とならんで社会の悲惨な現象を、より客観的な態度で描写した広津柳浪」や「小栗風葉〔中略〕などは悲惨小説とよばれて、ともに文学界の新風を形づくりました」と述べていて、この双方が共に、どちらも「日清戦争の生んだ戦後文学的現象」であることに変わりはない、という立場を取っているし、この点は前回、君に紹介しておいた、あの講談社文芸文庫編の『明治深刻悲惨小説集』の解説も同様である。

 

「悲惨小説」(別名「深刻小説」)も「観念小説」も、社会の悲惨な現実を対象化し、その深刻さを文学的に追求した点では本質的に同じものなのであって、違うのは、前者が写実的な描写そのものに、後者が作者の主張的な表現に力点(アクセント)を置いていた〔、〕ということなのだ。〔中略〕それは、虐げられている者、貧しき者、差別を受けている者らへの強いシンパシーに衝き動かされながら、もう一つの〔、〕あり得べき世界の模索に読者を誘(いざな)うものとなったのである。

 

そして、この「あり得べき世界の模索」という言い回しを、さらに英語の「オルタナティブ」(alternative)に置き換えて、この解説は次のように論じている。――「近代文学が現実に対して芸術的なオルタナティブを提示するものならば、まさに悲惨小説の登場において、日本近代文学は近代文学らしい相貌を文芸思潮として本格的に纏〔まと〕い始めたのだと言えよう。そこに、無視することの出来ない悲惨小説本来の意義があるのではなかろうか」。なお、ついでに「オルタナティブ」を『広辞苑』(2016年、岩波書店)で調べると、その語釈には「①代案。代替物。②既存の支配的なものに対する、もう一つのもの。特に、産業社会に対抗する人間と自然との共生型の社会を目ざす生活様式・思想・運動など」とあり、これは「悲惨小説」にも「観念小説」にも、該当する話なのである。

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