ホームメッセージスポーツの、たしなみ ――「教養」の来た道(343) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

スポーツの、たしなみ ――「教養」の来た道(343) 天野雅郎

ようやく先週、後期の期末試験期間が終わって、その後には正直な話、地獄のような採点(マーキング)の作業が待ち構えてはいるけれども、それも目下、一段落し、やっと僕はヤレヤレと、ひさしぶりに肩の荷を下ろしている所である。でも、そのような時に限って、こうして君に向けてブログの筆を執りたくなってしまうのは、どのような心境に由来するものなのであろう。割り切って言うと、端的に試験や、その採点は僕にとっては文字どおりの労働であり、それに対して、むしろ授業を介して、あれこれ喋っていることや、目下、君に対してパソコンのキーボード(keyboard=鍵盤)を叩いていることは、結果的に僕にとっては労働ではなく、奇妙な物言いには......なるけれども、それは労働(labor)に対する余暇(leisure)という意味で、さながらスポーツのごときものなのであった。

とは言っても、おそらく君は「スポーツ」と聞くと、すぐに「広義の運動競技のこと」を想い起こし、それ以外の「スポーツ」のことが頭から、すっかり抜け落ちているであろうし、下手をすると、それ以外の「スポーツ」が世の中に存在することすら、まったく知らぬ、存ぜぬ、の為体(ていたらく)であると困るから、以下、この語釈に続いて、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)が「スポーツ」を、どのように説明しているのか、さしあたり君に知っておいて貰(もら)うのが得策であろう。――「(英sports)もともとは気晴らしにする遊戯をさしたが、時代の変遷とともに競技的要素の強い、技術的にも高度な運動競技をさすようになった。一般には陸上・水泳の競技、野球・テニス・サッカーなどの球技やボート・登山・狩猟・武術などの総称として用いることが多い」。

さて、いかがであろう。このようにして「スポーツ」とは、当然ながら、英語の sports の翻訳語(と言うよりも、その片仮名表記)である。と言うことは、この語が『日本国語大辞典』の記しているように、その「時代の変遷」を踏まえないと、よく訳の分からない語であることを、まず君には弁(わきま)えておいて欲しいし、それは単純に、この語の歴史を「スポーツ」という複数形で表記するようになる時代と、それ以前の時代との違いとして、理解することが出来るであろう。この点に関しては、このブログで......と先刻、急いで僕は調べ直したのであるが、ありました、ありました、もう今から4年も昔、平成二十七年(2015年)の年末に「スポーツ」関連の一文(「スポーツ」して、いますか?)を僕は物しており、そこで、この「スポーツ」という語の成り立ちを論じていた次第。

結論から言うと、このようにして「スポーツ」が単数形(sport)から複数形(sports)へと移行するのは、どうやら16世紀の末年(厳密に言うと、1594年)のことらしく、これが本格的な状態に至るのは、さらに19世紀の後半を俟(ま)たなくてはならないようである。と書き継ぐと、きっと君も容易に感づいてくれるに違いないが、それは1894年になって、あのクーベルタン男爵(Pierre de Coubertin, 1863-1937)が国際オリンピック委員会を組織し、その2年後(1896年)に第一回のオリンピック(Olympic Games)が開催された事態と、ほとんど同時代的(コンテンポラリー)な現象であったことが分かるはず。要するに、君や僕が目下、普通に「スポーツ」としてイメージしているのは、このようにして今から、おおよそ150年前に始まった、ある種の「イメージ変革」の結果なのである。

おおよそ150年前と言ったのは、ふたたび僕が手許の『英語語源辞典』(1997年、研究社)を引いているからに他ならないが、同辞典によると、このような「スポーツ」の最初の用例には1863年という年が挙げられている。裏を返せば、それまでは複数形ではなく単数形で、この語は「娯楽」や「冗談」や「ふざけ」や「ゲーム」を、ただ指し示しているに過ぎない語であったし、同様に動詞でも、この語は「楽しむ」とか「気晴らしをする」とか、このような行為を表現する語であった。――と、この辺りまで話が来れば、例えば先刻、僕が授業を介して、あれこれ喋っていることや、目下、君に対してパソコンのキーボードを叩いていることは、結果的に僕にとっては労働ではなく、さながら「スポーツ」のごときものなのであった、と書き記した理由も、おそらく納得して貰えるであろう。

このような事態についても、僕は昨年(平成三十年→2018年)の春、このブログで「勉強について」という一文を物しているから、そちらも君の気が向いたら、ついでに参照してくれると有り難い。そして、その文末で述べているように、もともと「勉強」とは君や僕が、みずからを勉(つと=努)めて、何かに強(し)いる作業でもあれば、その作業を強いて、みずからに勉める行為でもあって、そのような行為の辿り着く先にこそ、そもそも人間の幸福は待ち構えている、と僕は考えている。であるから、そのような僕には「勉強」も「スポーツ」も、ほぼ似たり寄ったりのものなのであり、事実、それを『日本国語大辞典』も「努力をして困難に立ち向かうこと。熱心に物事を行なうこと。励むこと。また、そのさま」と、この「勉強」という語の第一の語釈で述べている通りなのである。

言い換えれば、このようにして「勉強」とは君や僕が、同辞典の第二の語釈に挙げられている、逆に「気が〔、〕すすまないことを、しかたなしに〔、〕すること」であってはならないのであって、例えば君が先日来、後期の期末試験期間に先立ち、いつもなら利用することのない「教養の森」センターを訪れ、屯(たむろ)し、車座になって、すぐ近くで本を読んだり、書き物をしたりしている僕には、お構いもなく、ペチャクチャ(ベチャクチャ?)と喋ったり、ワーワーと声を上げたりして、とうとう堪忍袋の緒を切らした僕に「うるさい!」と、真夏(旧暦五月)の蠅ならぬ、真冬(旧暦十二月)の蠅のように追い払われてしまったのであれば、それは君が、要は「気が〔、〕すすまないことを、しかたなしに〔、〕すること」を「勉強」だと思い込み、勘違いしている証拠なのである。

ついでに、このようにして最近、授業中に大講義室あたりで、後ろの席に陣取り、後ろを向き、ペチャペチャ(ベチャベチャ?)と私語を繰り返し、これまた僕に「うるさい!」と、どやしつけられるのは大抵、似た顔触れであって、残念ながら、それが多くの場合、ある特定の団体競技(⇔個人競技)の運動部やサークルに属するメンバーであることも、僕の心を暗くしている一因である。なぜなら......と言って、これが授業中であれば、この辺りでサルトルの自由論の話を、僕は持ち出す所であるけれども、今は授業中ではないので、その代わりに以下の「日本スポーツ協会」の一文で、ご容赦を。なお、この一文は君のように、もともと「スポーツ」が好きで、それと共に「勉強」も好きであるはずの、その名の通りの「スポーツ精神」のための「憲章」として、掲げられているものである。

第1条 スポーツの意義と価値

スポーツは、自発的な運動の楽しみを基調とする人類共通の文化である。生涯を通じて行われるスポーツは、豊かな生活と文化の向上に役立ち、人々にとって幸福を追求し健康で文化的な生活を営む上で不可欠なものである。さらに、スポーツは、人々が自主的、自発的に行うことを通じて、望ましい社会の実現に貢献するという社会的価値を有する。

第2条 スポーツ精神

スポーツ精神とは、自らスポーツを行うことに意義と価値を認め、常に品位と名誉を重んじ、スポーツの競技規則、スポーツマンシップやフェアプレーなどのスポーツ規範に基づき、生涯を通じて自己の能力・適性等に応じて、主体的かつ継続的にスポーツの楽しさや喜びを味わうことである。

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2019 Wakayama University