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レジャーの、たしなみ ――「教養」の来た道(344) 天野雅郎

前回は、お仕舞いに「スポーツ精神」という名の、あまり聞き慣れない語を使い、僕は君に話をしておいたのであるが、この語自体は「日本スポーツ協会」の憲章(charter=宣言)から、そのまま借り受けたものである。とは言っても、この「日本スポーツ協会」という団体(=公益財団法人)のことを君が知っているのか、どうかは定かではなく、そう言う僕自身も、この団体が昨年(平成三十年→2018年)の春、4月1日付で「日本体育協会」から「日本スポーツ協会」へと名を改めるに及んで、ひさしぶりに注目したような為体(ていたらく→体〔テイ→漢音、呉音→タイ〕たらく→断定の助動詞「たり」の「く」語法→そのような体〔=様子〕であること→有様)である。なお、これに英語表記を宛がうと Japan Sport Association となるが、その略称には JSPO が用いられている模様。

ちなみに、この団体の前身である「日本体育協会」は、昭和二十三年(1948年)になって戦前の「大日本体育会」から改称されたものであり、さらに遡ると、それは明治四十四年(1911年)に創設された「大日本体育協会」にまで辿り着く。と書き足すと、おそらく君は現在、NHKの大河ドラマで放送中の『いだてん~東京オリムピック噺~』や、そこに登場する、あの嘉納治五郎(かのう・じごろう)の顔を想い起こすであろうが、僕個人は残念ながら、我が家にテレビがないので、想い起こすのは嘉納治五郎ではなく、彼の後を継いで「大日本体育協会」の第二代会長となった、岸清一(きし・せいいち)なのである。なにしろ、この「近代スポーツの父」は僕の郷里(島根県松江市)の、ごく近所で生まれた人であり、実は僕の、小学校(市立雑賀小学校)の先輩に当たっているからである。

と言う訳で、僕は小学生の時分、毎日毎朝、まったく同年の先輩である若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)と並んで、いつも岸清一の銅像と対面していたのであって、その銅像が今でも、島根県庁の前に建てられていることは知っているし、その除幕式の時(昭和三十九年→1964年)には「東京オリンピック」の開催に合わせて、小学生であった僕は校門の傍らで通り過ぎる聖火リレーの走者に「日の丸」の旗を振って(と言うよりも、振らされて)いたのを憶えている。そして、それと同じ銅像が建てられているのが、東京にある「岸記念体育会館」であり、そこは先刻来、述べている「日本スポーツ協会」の本部ビルでもあった次第。まあ、それも来年の「東京オリンピック」に応じて取り壊され、新しく「ジャパン・スポーツ・オリンピック・スクエア」に装いを改めるようではあるが。

ともあれ、このようにして振り返ると、意外や意外、僕のごとき「スポーツ精神」とは縁(エン→音読)も縁(ゆかり→訓読)もなく、とにかく机(椅子?)に座って、本を読んだり、書き物をしたり、その後には決まって、いつも晩酌(バンシャク)に精を出してばかりいる人間が、けっこう「スポーツ精神」と結び付いている面も、あるのであって、それは前回、君に紹介しておいた、例の「スポーツ精神」の規定からも窺い知ることが出来るであろう。もう一度、念のために引いておく。――「スポーツ精神とは、自らスポーツを行うことに意義と価値を認め、常に品位と名誉を重んじ、スポーツの競技規則、スポーツマンシップやフェアプレーなどのスポーツ規範に基づき、生涯を通じて自己の能力・適性等に応じて、主体的かつ継続的にスポーツの楽しさや喜びを味わうことである」。

その意味において、この憲章が第3条に、以下のような「スポーツの使命」を置いているのは、よく事情が分かるし、また、その後には「スポーツ」が君や僕の「基本的権利」であり、ほかならぬ「文化」(culture=教養)である......として、次のように述べられているのも納得の行く話なのである。そこで、まず第4条の「基本的権利としてのスポーツ」から、ご一読を。――「スポーツは、性別や年齢、障がいの有無などに関係なく、全ての人々が自由に楽しむ文化であり、スポーツを楽しむことは、全ての人々の基本的な権利である。そして、その権利の実現のためには、誰もがスポーツに親しめる機会として、「する」、「みる」、「支える(育てる)」等の多様な関わり方が可能となり、また、適切なスポーツ指導能力を持つ有資格者の指導が受けられるよう配慮されなければならない」。

 

第3条 スポーツの使命

 スポーツは、人々のライフスタイルに様々な影響を与え、人生を〔、〕より豊かに充実させる。さらに、スポーツは、人々がスポーツ文化を豊かに享受することによって、次の各号に定める21世紀のグローバルな課題の解決に寄与し、望ましい社会の実現に貢献するという新たな使命を有している。

(1)スポーツを通して人と人の絆が培われ、人々が共に地域に生きる喜びを広げ、人種、思想、信条等を超えて公正で福祉豊かな地域生活を創造すること。

(2)スポーツによる身体的諸能力の洗練を通じ、環境や他者への理解を深め、自然と文明の融和の下、環境と共生する持続可能なライフスタイルを創造すること。

(3)相互尊敬を基調とするスポーツにおけるフェアプレーの精神を広め深めることを通じて、平和と友好に満ちた世界を構築すること。

 

ところで、納得が行かないのは、ここからである。......と話は急転直下、雲行きが怪しくならざるをえないが、少なくとも僕の周囲を見回す限り、このような「スポーツ精神」の所有者であり、あるべきはずの人間が、むしろ逆に「スポーツ精神」を欠き、これを蔑(ないがしろ=無代)にしたような態度や行為を表立たせ、際立たせるのは何故なのか知らん。例えば――と言って、ふたたび前回の話に戻るのも恐縮ではあるが、例の彼ら、彼女らは「教養の森」センターに姿を見せるや否や、困ったことに、勝手に机を動かし、椅子の位置を変え、これらを元に戻さず、姿を消すのが常習であり、その後には30度(!)で消し忘れのエアコンや、つけっぱなしの電気が煌々と点り続けているのである。これを「スポーツ精神」に悖(もと)る態度や行為と言わずに、さて、何と言うのであろう。

あ~好い気持ち。やはり人間は、ただ「うるさい!」と声を荒げたり、黙々と机や椅子を並べ直し、電源を切って回ったりしているだけでは駄目なのであって、このようにして言いたいことは、はっきり言わないと、きっと精神衛生上、宜しくないに違いない。要するに、このような乱暴狼藉を働くことで、はたして彼ら、彼女らは、そもそも自分たちが「スポーツ精神」の持ち主であるのかどうかを、ひいては、地域の福祉のため、環境の保全のため、世界の平和のため、そもそも「スポーツは、人々のライフスタイルに様々な影響を与え、人生を〔、〕より豊かに充実させる」と言えるのかどうかを、そして、そのことを通じて「21世紀のグローバルな課題の解決に寄与し、望ましい社会の実現に貢献するという新たな使命を有している」と言えるのかどうかを、猛反省するべきなのである。

あ~好い気持ち。でも、このようにして言いたい放題を言って、お仕舞いでは、これまた精神衛生上、宜しくないのも確かであって、そこは「亀の甲より年の功」って......この駄洒落を、彼ら、彼女らが知っていてくれることを祈りつつ、僕は最後に講談社学術文庫の、ヨゼフ・ピーパーの『余暇と祝祭』(1988年)を取り上げておくことにする。まあ、君のように僕のブログの愛読者であれば、このような「余暇」や「祝祭」の何たるかについて、ことさら取り上げ、論じる必要はないのであろうが、おそらく昨今、多くの日本人が忘れてしまっているのは、以下の「精神的態度」であったことも疑いがなく、その意味において、まさしく「スポーツ精神」とは「レジャー精神」であり、その到達点には「沈黙」が待ち構えていることを、君や僕は再度、想起する必要があるのではなかろうか。

 

ここで「余暇」は一つの精神的態度を指す言葉だ、ということを確認しておきたいと思います。〔改行〕休憩時間、自由時間、週末、休暇、などは外的な事実です。ところが、「余暇」は〔、〕そうしたものといっしょに「そこにある」とはいえないのです。それというのも、「余暇」は人間の在り方、精神の状態だからです。〔中略〕余暇とは、物事の真実に耳を傾けるためには〔、〕どうしても必要な、あの沈黙の〔、〕ひとつのかたち〔かたち→傍点〕といえます。沈黙している人だけが聴いているのであって、口を閉じない者には何も聞こえません。ここでいう「沈黙」とは〔、〕ただ声をださないこと、口をつぐんでいることではありません。口を開けば〔、〕とぎれてしまうような深い心の通いあい〔→通い合い〕のことを言いたいのです。

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