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「スポーツ精神」論 ――「教養」の来た道(348) 天野雅郎

最近、何やらスポーツ好いている、という変な日本語で今回は話を始める。確かに、何やらスポーツ好いている。でも、それは僕が誰か、第三者の目から見て「スポーツ好き」であることを保証するものでは、まったく無く、むしろ僕が一時期、野球チームの監督をしていたことがある(!)と言っても、誰も信じてくれないであろう程(ほど)の、訳の分からない「スポーツ好き」の話であり、それは例えば小林秀雄(こばやし・ひでお)が『常識について』の中で、もともと「私は、学生の頃から、スポーツが好きだった。身体のできが貧弱だったから、スポーツ選手にはなれず、愚連隊の方に傾き、いつの間にか、文士なぞになってしまったが、好きなことは今でも変わらない」と述べているのと、ひょっとしたら似ていないことも、ないかも知れないほどの「スポーツ好き」の話である。

ちなみに、この『常識について』(1968年、角川文庫)という本を、僕は先日来、君に紹介しているけれども、その話の糸口には、白洲正子(しらす・まさこ)の『たしなみについて』(2017年、河出文庫)がある。と言うことは、きっと僕にとって「常識」とは、どこかで「たしなみ」と通じ合い、通い合う面を持っているに違いない。そのように思って振り返ると、なるほど白洲正子の語る「お祈り」にも、あの小林秀雄の「オリムピア」が引き合いに出されていたことからも窺える通り、その宗教的(religious=謹慎的)な意味合いの向こう側には、まさしく「スポーツ選手」の一挙手一投足が垣間見えているのであって、それは見方を変えれば、こちらが今度は逆に、宗教者の「お祈り」や芸術家の立居振舞(たちい・ふるまい)と、そのまま等しく重なることにも、なりうる訳である。

もちろん、このような発言自体は、いろいろな人の口を通じて、まさしく異口同音に、これまで論じられてきたことでもあるから、その尻馬に僕が乗り、この場を借りて、とりたてて論(あげつら)うべきことでは、ないのかも知れないね。でも、このようにして人間にとって、とても大切なことや見逃されてはならないことや、忘れられてはならないことが、たまたま誰かの口に一度、上ったからと言って、それ以降、それを古いとか、時代遅れだとか二番煎じだとか、悪口を言い、その反対に、いつも新奇なものを好み、繰り返しを嫌う......そのような時代の趣味(=好き嫌い)は結果的に、はたして君や僕を満足させ、幸福にするものなのであろうか。――そのことが、ずいぶん長い間、大学という場所にいて、いちばん僕の気を揉み、気に病んでいる点でもあったから、厄介な話である。

なぜなら、おそらく大学という場所は君や僕の生きている、この時代(time=潮流)の中で、もっとも新奇なものを好み、文字どおりに新しいものや奇(めずら)しいものや、それどころか、むしろ奇(あや)しいものをこそ追い求める、はなはだ珍奇な場所であったからである。事実、そこには字義どおりの奇人たちが屯(たむろ)しているし、その奇言や奇語や、奇状や奇態は後を絶たず、彼ら、彼女らの奇行は、それこそ枚挙に遑(いとま=暇)がない。とは言っても、そのような奇人の一員に数えられる要素や要因が、僕の場合にも決して、抜け落ちている訳ではなく、要は普段から、無闇(むやみ)に奇声を発したり、矢鱈(やたら)に奇術を弄したり、しないように努めているだけのことであるから、ご安心を。......と言って、いったい誰が、何を、どのように安心するのか知らん。

閑話休題。話を戻す。別段、大学であっても、なくても、それほど事態は変わらないのではなかろうか。なにしろ、君や僕は生涯、奇縁の中で、奇縁と共に生きていくのであって、それ以外の仕方で生きることは、君や僕には原理的に不可能である。であるから、それを奇福とするのか、奇禍とするのか、突き詰めれば、それは君や僕の判断次第であろうし、そのような判断力を練り、磨くことしか、君や僕に残されている錬磨は、ないのである。そして、そのような錬磨のことを、これまで日本の社会や文化は、いわゆる教養という語で呼んできたのであるが、困ったことに、そのような教養が大学において評価され、見直される気配が、ほぼ皆無であるのと同様、一般社会においても「常識」や「たしなみ」の存在理由と、その存在意義は、すっかり忘れられてしまっているのが実情であろう。

小林秀雄の『常識について』を読んでいて、とりわけ今回は、前回の「オリムピア」の少し前に置かれている、その名も「スポーツ」という題名のエッセーを読んでいて、このような感想を、あれやこれや、僕は思い浮かべていた所である。その点、今回は有体(ありてい)に言えば、その「オリムピア」に繋がる「スポーツ」の話なのである。が、その時、ふと僕が興味を持ったのは、たまたま前々回の、その前々回に「スポーツの、たしなみ」と「レジャーの、たしなみ」という雑文を書き、君に読んで貰(もら)った際、僕は「日本スポーツ協会」の憲章を引用しながら、そこに使われていた「スポーツ精神」という語に対して、いささか違和感を催し、この言い回しが僕の中で少し落ち着きの悪い、腑(フ→臓腑→はらわた!)に落ちない感じのする語である、と君に伝えておいた次第。

この感じは、今も変わらない。けれども、この「スポーツ精神」という言い回しを、実は今回、冒頭にも引用した「スポーツ」の一節で小林秀雄が用いており、それを目にした折、かなり僕の印象が変わったのは確かである。そこで以下、その個所を君の一覧に供したく、僕は再度、小林秀雄の引用に励むが、多分、このような引用という行為も僕にとっては、ある種の「スポーツ」であるに違いない。なぜなら、そもそも「スポーツ」とは小林秀雄に言わせれば、何よりも「人間の正銘〔しょうめい〕な実力というものが、はっきり見られる世界」であり、そのために「人間が一定の目的を定め、定められた方法と秩序とに従い、精神と肉体との完全な協力のもとに、全努力を傾注し、そこに〔、〕おのずから、個性の優劣が〔、〕はっきりと現われ出てくる」ための、その仕組であったから。

 

この精神〔=スポーツ精神〕は、おそらくオリンピック以来〔、〕少しも変わっていないと思う。オリンピックが語るとおり、スポーツの起源は、宗教的なものだ。選手達は戦いの動機の純粋性を互いに信じ合い、戦う条件や手段の公示と潔白とを認め合い、審判の絶対性に対する共通の信仰を持つ。〔中略〕しかも選手たちは、定められた秩序や方法を、制約とは少しも感じていない。規律があることが楽しいのである。まず規約がなければ、自由な努力などはすべて〔、〕むなしいという〔、〕むずかしい問題を、楽々と解いている。詐術〔さじゅつ〕も虚偽も粉飾も、はいりこむ余地はない。そんなものを、誰も望みはしないし、考えてもみない。〔中略〕おそらく、勝敗というものも、周囲の人々が考えているほど、選手たちの心を動かしているものではない。

 

言い換えれば、そもそも彼ら、彼女らは「勝ちたいと望むよりは、勝つためには実際どう行為すべきか、の問題」に心を砕き、また「勝つとは、実は相手に勝つことではなく、自分の邪念に勝つことだと本能的に承知している」人たちなのであった。――さて、いかがであろう。このような小林秀雄の「スポーツ精神」論を読むと、ふと僕は、子供の時分に読んだ剣豪小説を想い起こすのであるが、それも果たせるかな、この一文が物されたのは昭和三十四年(1959年)であり、あの「東京オリンピック」まで、まだ5年の歳月が残されている。要するに、これは幸か不幸か日本人が、やがて自分たちの国でオリンピックが開催されるのを夢にも思わなかった頃の話であり、そこには「日本スポーツ協会」の憲章の定める「不適切な行為」も、その「根絶」の必要も、なかった頃の話なのである。

 

第5条 スポーツの公平性及び公正性の確保

スポーツにおいては、フェアプレーの精神を尊重し、公平性及び公正性を確保するため、スポーツの価値を損なう次の各号に定める不適切な行為を行わず、強要せず、黙認せず、許さず、その根絶に努めるものとする。(1)暴力、各種ハラスメント(セクシュアル・ハラスメント、パワー・ハラスメント等)又は差別(人種、性別、障がいの有無等)等の行為 (2)ドーピングや勝敗に関わる意図的な操作等の不正行為 (3)薬物乱用(大麻、覚醒剤など)や違法賭博等の反社会的行為 (4)暴力団等反社会的勢力と関わる行為

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