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スポーツマンシップを考える ――「教養」の来た道(349) 天野雅郎

スポーツマンシップを考える、という本を本棚から引っ張り出し、目下、読み終えた所である。と書いて、このような時に「所」という漢字(音読→ショ)を宛がうのは少々、違和感を催さざるをえないが、もともと「所」とは字面の通りに、戸に斤を合わせた字であったから、これは斤(おの→斧)で木を切る際の音を表している、と考えるのが一般的である。と言うことは、昔々の中国で、斧で木を切る際には「コ」(→戸)という音が聞こえていたことになる。そう言えば、同じ「ところ」を示す「処」(音読→ショ)という漢字にも、その旧字である「處」には虎(音読→コ、訓読→とら)の音が隠されているし、どうやら「処」とは君や僕が几(つくえ→机)に腰を下ろしている折の、その姿を象っているらしいから、これが処罰や処刑や、あるいは処女に用いられるのは不思議な感じ。

と、このようにして漢字を使い、あれこれ頭を捻(ひね=手+念)るのが、とても僕は楽(たの=手+伸)しいし、面白いし......それは僕にとって、文字どおりの「遊」(音読→ユウ、訓読→あそび)でもあって、それが机上の「あそび」であっても、はたまた、陸上の「あそび」であっても(→遊)水上の「あそび」であっても(→游)いずれにして「あそび」には、そこに遊子(ユウシ=旅人)となる行動が伴われざるをえない。言い換えれば、そのような遊子となることが「あそび」であるし、そのような遊子となるために、わざわざ君や僕は「あそび」に興じ、そこに身を委(ゆだ)ねる訳である。したがって、そこから必然的に「あそび」には、束の間の、一時的な性格が付き纏(まと)い、君や僕が絶えず、ひたすら「あそび」に耽(ふけ)ることは逆に、禁じられているのでもある。

理由は簡単である。そもそも「あそび」とは君や僕のような、人間の側に属するものではなく、むしろ神の側や仏(ほとけ→死者→霊魂)の側に属するものであり、そのような神の側や仏の側に、束の間、一時的に身を置き、これと関わるのが「あそび」であった次第。事実、例えば白川静(しらかわ・しずか)の『字統』(1984年、平凡社)を引くと、そこには「すべて自在に行動し、移動するものを遊といい、もと神霊の遊行に関して用いた語である」と記されていて、そこから「あそび」や、また「うかれ」(→うかれを・うかれめ)という日本語も、もともと「すべて人間的なものを超える状態をいう語であった。また「あそぶ」という語も、神遊びが原義であり、「あそばす」という敬語も〔、〕そこから生れる。神とともにある状態をいう」と付け加えられているから、ご参考までに。

また、これを日本語の「あそぶ」の側から説き明かすと、さらに次の『字訓』(1987年、平凡社)のような形になるので、これも一緒に。――「歌舞などをして楽しむ。直接的な目的を〔、〕もつことのない行為とされるが、本来は足を動かすこと、狩猟や収穫を楽しんで歌舞することをいう。遊芸のことは、祭祀儀礼など、もと神事に起原するものであった。のち貴顕の遊楽の意となり、山川自然の風雅や酒宴を楽しむことをいう。「あそび」は名詞形。「あそばす」は尊敬の助動詞「す」をそえた敬語の形。その語を戯れる意に用いる例は〔、〕みえない」。なにしろ、遡れば「鳥獣の類も〔、〕みな神性の化身であり、狩〔かり〕することは〔、〕その神霊と交わることで」もあって、それを人間が戯れに、いわゆる「遊び半分」に行なうことは許されず、何よりも、それは危険であったから。

さて、いささか長い前置きとはなったが、スポーツマンシップに話を戻す。と言うよりも、これで充分、スポーツマンシップの説明は足りたのではないか知らん、と僕は感じているけれども、さて君は、いかがであろう。第一、僕に言わせれば、これと同じか、ほぼ似たり寄ったりのことが、今回、広瀬一郎(ひろせ・いちろう)の『スポーツマンシップを考える』(2005年、小学館)には書かれていたのであって、それは端的に「スポーツマン」を「運動の好きな人」や「運動を〔、〕よくする人」や、あるいは「運動能力に優れた人」と捉えるのは「おかしい」という主張であり、このようにして「運動という物理的な尺度がスポーツマンであるかどうかの判断基準に」なっていては、いつまで経っても、日本人は「スポーツマン」の何たるかを、理解することが出来ないのではあるまいか。

と書いて、ちょっと不安になったので調べてみると、確かに僕の愛用の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)にも「スポーツマン」は「(英 sportsman)運動競技の選手。また、種々の運動競技を好んでする人」と説明されているし、この点は『広辞苑』(岩波書店)の語釈に「運動競技の選手。また、スポーツの得意な人」とあるのと、ほとんど変わらない。笑ったのは......と言うと、失敬千万、ご容赦を m(_ _)m 願うしかないが、例えば『大辞泉』(小学館)が「スポーツの選手。また、スポーツを好んで〔、〕よくする人」と、かなり上手い予防線を張っていたことである。それと言うのも、同辞典では「楽しみを求めたり、勝敗を競ったりする目的で行われる身体運動の総称」が「スポーツ」なのであり、そこには「レクリエーションとして行われるもの」も含まれているからである。

このようにして振り返ると、なるほど『広辞苑』も「スポーツ」を「遊戯・競争・肉体的鍛錬の要素を含む身体運動の総称」として捉えているし、以前、君に紹介したように、これが『日本国語大辞典』では「もともとは気晴らしにする遊戯をさしたが、時代の変遷とともに競技的要素の強い、技術的にも高度な運動競技をさすようになった。一般には陸上・水泳の競技、野球・テニス・サッカーなどの球技やボート・登山・狩猟・武術などの総称として用いることが多い」となる。いやはや、辞書作りも大変だな。このようにして「スポーツ」や「スポーツマン」という語を取り上げるだけでも、涙ぐましい努力が辞書作りには不可欠である。ましてや、それが「スポーツマンシップ」となると――「スポーツマンとして求められる、明るく正々堂々と全力をつくして競技をする態度、精神」。

やれやれ、また「精神」か。でも、このようにして辿り直すと、要するに英語の「スポーツマンシップ」(sportsmanship)が日本語で、かつて「スポーツ精神」と翻訳され、使用されていた時期があり、その後、この二つの語が社会的(と言うよりも、政治的で経済的)な状況に応じて、いろいろ使い分けられて今に至る、と言うのが実情のようである。が、はたして君や僕は「スポーツマンシップ」という名の、このカタカナ表記で、いったい「スポーツ」や「スポーツマン」の何を、どこまで知ることが叶ったのであろう。その意味において、この『スポーツマンシップを考える』という本が述べているように、この国では1960年代以降、次第に「スポーツマンシップ」の方が普及し、それと並んで、この語が正体不明の語として定着していく経緯の方が、ずっと僕には興味深いのであるが。

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