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気分について ――「教養」の来た道(353) 天野雅郎

しばらく前に「スポーツ精神」論を書いて、そこから続けて、さらに精神の話を持ち出しておいたから、今度も「スポーツ気分」論の後には、気分について、また僕の駄弁が始まるに違いない、と君は先日来、お見通しであったはず。でも、意外や意外、この気分という語は前回、君に報告しておいた通り、20世紀の哲学が歴史上、あらたに俎上(ソジョウ)に載せた、その意味において、まさしく現代哲学の鍵語(キーワード)なのであり、この語を理解すると、しないとで、君の「現代」という時代への眼差し(look)や、その見通し(view)は、かなり異なったものになるのではあるまいか。とは言っても、この語を上手く俎(まないた=真魚板)の上に載せ、その魚(さかな=酒肴)を上手に調理し、これを美味(うま)い、旨(うま→甘)いと味わえるのか、どうかは君次第であるが。

なぜなら、例えば前回も君に紹介しておいた、あの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の語釈のように、この「気分」(キ・ブン、漢音→キ・フン、呉音→ケ・ブン)という語を君や僕は、ごく普通に「心持。気持。ここち〔心地〕」として捉えていて、そのこと自体は、まったく正しいのであるけれども、それだけでは残念ながら、この語の意味深(イミシン)な所には手が届かず、これを「女学生仲間の隠語」(!)として使うには、とうてい至りえないからである。ちなみに、この語釈に続いて同辞典は、具体的に「ある期間〔、〕持続する、比較的弱い感情の状態」を「気分」と称し、そこには「不快、憂鬱(ゆううつ)、快活など」が含まれる、と述べていて、さらに「現在では、先天的で持続性の強い感情の状態をいう「気質」とは区別される」と説明しているので、ご注目を。

と言うことは、もともと「気分」は「気質」と、ほとんど(まったく?)同じ使い方をされていた時代が、あることにもなるのであって、事実、同辞典の挙げている「気分」の第二の意味は「気質。性質。気性」であった。このようにして振り返ると、逆に「気質」や「気性」を「先天的で持続性の強い感情の状態」として捉え、これに対して「気分」や「気持」は後天的な、持続性の弱い感情の状態である、と理解するのが君や僕の、通例の判断であったことにもなりうるであろう。なお、ついでに同辞典は、この後、三番目に「様子。感じ。趣。雰囲気」を、四番目に「気分が〔、〕すぐれぬこと。病気」を、五番目に「仏語。習慣的な行為によって性格づけられ、心中に蔵される精神的エネルギー。これがまた、特定の行為を生み出す力になる」と、それぞれの語釈を並べていて、興味深い。

と言ったのは、このようにして君や僕が「気分」という語を後天的な、言い換えれば、個人的で経験的な「感情の状態」であるかのごとく考えるのは、いたって新しい、人間と世界の、関係の仕方であったことになりうるからである。な~んて言い出すと、たちまち話は面倒くさい、ややこしい様相を呈さざるをえないが、このことは君や僕が日常生活において、あたりまえに感じていることと、そもそも違っているのではなかろうか。論より証拠、君や僕が「不快」な気分や「快活」な気分や、あるいは「憂鬱」な気分を催す時、そこには後天的な、君や僕の個人(individual=非分割態)の、それぞれ経験が前提となっているよりも、その前に、はるかに先天的な......という表現自体を、君や僕は文字どおりに(verbatim)受け取る必要があるけれども、それは「天に先立つ」ものであった。

いちばん分かりやすいのは天気であろう。天気とは、これまた『日本国語大辞典』に従えば、そもそも「天の気」の意味であり、それは第一に「万物を育成する、天に〔、〕みなぎっている精気」を指し示し、そのような形で古くから、中国でも日本でも、用いられてきた語である。したがって、これが近代以降、現在のように「気象の状態。普通、晴雨など〔、〕その日の空模様をいう」場合にも、また、そこから「気象学では、ある時刻における気温、気圧、湿度、風速、風向、雲形、雲量、降水量などの気象要素の総合された気象状態をいう」ようになっても、はたまた、それが特に「空が晴れていること、天候のよいこと。晴天。はれ」を意味するに至っても、いずれにしても天気が、まず君や僕の気分を、その日、その時に予定し、既定し、これを確定するものである点は疑いがない。

この点に即して言えば、その日、その時、君や僕は天気が好ければ、おおむね「快活」な気分を催し、生き生きとした状態になるであろうし、それを日本人であれば、あたかも気が和(なご)み、気が和(やわ)らぎ、気が晴れるかのような状態として受け止めるであろう。それとは反対に、天気が悪ければ「不快」な気分になったり、あるいは「憂鬱」な気分になったりすることも多い。このような場合にも、実に日本語の語彙(ヴォキャブラリー)は豊富であって、例えば曇りの折には気が重かったり、気が塞(ふさ)いだり、あるいは、雨の際には気が腐(くさ)ったり、気が滅入(めい)ったり、とうとう、気が触(ふ)れたり、気を病(や)んだりすることにも、なりかねない訳である。その意味において、何かが兆(きざ=萌)すことには、それ自体、気が指すことが伴われている。

このようにして振り返ると、ふたたび前回の最後に引用しておいた、あの中山元(なかやま・げん)の『思考の用語辞典』(2000年、筑摩書房)が説き明かしているように、まず「気分そのものの概念を哲学の世界に〔、〕はじめて登場させたのは、二〇世紀のハイデガー〔Martin Heidegger,1889-1976〕だった」ことも、彼が「世界に規定され、世界のうちで生かされている主体として現存在〔すなわち、人間〕を考えた」ことも、それなりに君には、事情が分かって貰(もら)えるのではないか知らん。――「ハイデガーは『存在と時間』で、現存在〔Dasein〕は情態性(感じやすさ)という〔、〕ありかたで存在すると指摘した。そして世界内存在〔In-der-Welt-Sein〕としての現存在は、気分で生きる存在だと〔、〕はっきり示した。人間は〔、〕まず世界のうちに生きる存在なんだ」。

 

この「現存在」は事物と人々の関係のうちに投げこまれているという〔、〕ありかたをしている。ぼくたちは事物のように存在するのじゃなく、実存する〔existieren〕。実存すること〔Existenz〕は、自由であることと、外界に規定された受動的な存在であることの、その両面を生きることなんだ。〔中略〕ハイデガー自身が世界内存在としての現存在に〔、〕みているのは〔中略〕能動的な主体じゃない。身体をもって世界のうちに生きて、受け身の気分を感じて生きる存在者だ。だとしたら、ぼくたちは気分によって、自分が世界のなかに投げこまれていることを発見するわけだね。

 

さて、いかがであろう。このような場合、どうしても「現存在」とか「世界内存在」とか、ましてや「情態性」(Befindlichkeit)とか、このような言い回しを宛がわざるをえない所に、僕自身は残念ながら、自分と「哲学」との間にある、どうしようもない、越え難い隔たりを感じてしまうのであるけれども、それも言ってみれば、僕自身が「現存在」であり「世界内存在」であり、その根源的(=先天的)制約としての「情態性」を身に纏(まと)い、これを引き受け、生きるしかない存在であるからに他なるまい。......と嘆きつつ、今日は久方ぶりに、ちくま学芸文庫版(細谷貞雄訳)の『存在と時間』(1994年)のページを開き、その「心境〔=情態性〕としての現=存在」(第29節)の該当箇所を読んでみたので、これを君の一覧にも供したく、以下に抜き出しておくから、ご一読を。

 

われわれが存在論的〔存在論的→傍点〕に心境という名称で指しているものは、存在的〔存在的→傍点〕には〔、〕ごくありふれた、もっとも〔、〕よく知られているもの、すなわち、気分、気持ちのことである。

気持ちのなかで現存在は〔、〕いつも〔、〕すでに気分的に開示されている。〔中略〕そして〔、〕このことは、とりもなおさず、現存在が実存しつつ〔、〕みずから〔、〕それであるべき存在へ引き渡されている〔、〕ということなのである。

心境において、現存在は〔、〕いつも〔、〕すでに〔、〕おのれ自身の前へ連れだされている。それは〔、〕いつも〔、〕すでに、おのれを見いだしている、――とはいえ、知覚的自己発見としてではなく、気分的な心境においてである。

心境は〔中略〕にわかに現存在を襲ってくる。しかり、気分は襲ってくるものである。それは「外部」から来るのでも「内部」から来るのでもなく、世界=内=存在のありさまとして、世界=内=存在そのものから立ちこめてくる。

われわれが定めなく気分の〔、〕ゆらぐにまかせて「世界」を見ているときにこそ、手もとに現前するものごとが、それらの一日として〔、〕おなじ姿ではない特有の世界性において現われてくるのである。

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