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精神について、ふたたび ――「教養」の来た道(355) 天野雅郎

精神について、ふたたび君に話を聴いて欲しくて、僕は筆を執り直した所であるが、まず最初に、以前(第351回:精神について・承前)紹介した『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の「精神」の語釈を、この場に掲げることからスタートをしたい。――「① 心。また、心の働き。肉体に対し、形而上的な働きをする実体としての心。② 物質的なものを超越した霊妙な実在。たましい。霊魂。③ 物事に執着する気持。目的を達成しようとする心の働き。気力。根気。④ 生気の〔、〕あふれる状態」。ちなみに、これが『広辞苑』の第六版(2008年、岩波書店)では次のようになっている。一応、僕のように哲学の勉強をしている側から言わせると、この「精神」の語釈に限れば、はるかに『広辞苑』の方が親しみを感じるけれども、さて一般の、ごく普通の人たちの目線には、いかがであろう。

 

①(物質・肉体に対して)心。意識。たましい。

② 知性的・理性的な、能動的・目的意識的な心の働き。根気。気力。

③ 物事の根本的な意義。理念。

④ 個人を超えた集団的な一般的傾向。時代精神・民族精神など。

⑤ 多くの観念論的形而上学では、世界の根本原理とされているもの。例えばヘーゲルの絶対精神の類。

 

ところで、このようにして『日本国語大辞典』であれ『広辞苑』であれ、この国を代表する、大型の国語辞典や中型の国語辞典を並べ、比べてみると、ただちに明らかになる点であるが、そもそも「精神」は「心」(こころ)や「魂」(たましい→霊)や、その「働き」である「気」の力(すなわち、気力)と同じものであり、これを容易(安易?)に、置き換えることの叶うものなのであろうか。この点が、まず疑問点として浮かび上がらざるをえない。なぜなら、もともと「精神」とは漢語であって、当然、中国で古くから用いられ、今に至る語であるけれども、この語の字面を見れば一目瞭然、何よりも「精神」とは米(音読→マイ・ベイ、訓読→こめ・よね)の青さを指し示す語であり、要するに、それは米を搗(つ)いて、白くした状態を意味している。いわゆる精米のことであった。

これを日本語では「しらげよね」とか「しらげごめ」とか言う。もちろん、このような場合に使う白(音読→ハク・ビャク、訓読→しろ)と青(音読→セイ・ショウ、訓読→あお)は、君や僕が昨今、あたりまえにイメージしてしまう、英語のホワイト(white)とブルー(blue)ではないのであって、かつて日本語では「黒と白との中間の範囲を示す広い色名」(『日本国語大辞典』)が青であり、それは時には黒になったり、このようにして白になったり、また時には、それは緑にもなったりする。例えば、君が高校生の頃、古文の時間に『源氏物語』か、それとも『枕草子』あたりを通じて習ったであろう、あの「あおうま」の節会(せちえ)は、漢字で書けば「白馬」ともなるし「青馬」ともなる。「水鳥の、鴨(かも)の羽色(はいろ)の青馬を、今日(けふ)見る人は限り無しと言ふ」

大伴家持(おおとも・の・やかもち)の『万葉集』(巻第二十、4494)の歌である。もう今から1260年ばかりも昔(天平宝字二年→758年)の歌であるから、すでに奈良時代には正月(1月7日)が来ると、このようにして「青馬」の節会が年中行事として、宮中で催されていたことが分かる。ちなみに、これが「白馬」の節会と表記されるのは平安時代の半ば(10世紀中葉)以降のことであるし、これが一旦、応仁の乱(1467年~1477年)で途絶えはしても、やがて室町時代から江戸時代へと、この行事は引き継がれ、明治時代の初めまで、細々と営まれ続けていた(らしい)のである。であるから、この時分までは青や白という言い回しで、もっぱら日本人がブルーやホワイトのことを思い描く、君や僕のごとき「青二才」(あおにさい)ぶりなど、この国には存在していなかったことになる。

閑話休題。話を戻す。......と書いて、なかなか戻さないのも芸の内、と僕は思っているのであるけれども、どうも最近、大学の授業でノンベンダラリ(ノンベングラリ?)と、あっちへ行ったり、こっちへ行ったりの話をしていると、これに耐え切れず、痺(しび)れを切らしたり、堪忍袋(かんにんぶくろ)の緒を切らしたり、いわゆる「切れる」大学生が増えてきたような気が、僕はしていて、これを『日本国語大辞典』であれば「(こらえていた気持が途切れて)逆上する。多く、現代の若者が用いる」と、また『広辞苑』であれば「我慢が限界に達し、理性的な対応ができなくなる」と説明しているが、このような「切れる」症状は昨今、てっきり中高年(オヤジ!)の傾向かと思っていたら、どうやら一部、特定の男子学生の特徴でもあるらしく、いささか僕は憂慮している所である。

別段、男女差別の話ではない。が、このような傾向や特徴は僕の見る限り、けっこう理系の男子学生や、あるいは体育会系(=運動部系)の男子学生に、よく見出されうる性癖であって、きっと普段の生活や勉強の仕方や、裏を返せば、遊び方や人(ひと=他人+自分)との付き合い方と通じ合い、これと重なり合うものであったに違いなく、そのような折には心の中で、もっとカルシウム(calcium→calx→石灰)を摂ろうよ、と呼び掛けたくなるのが正直な所である。なにしろ、それこそ一日の相当の時間を、いつもスナック菓子を食べながら、ひたすらスマホを弄(いじ)ったり、ゲームに熱を上げたりしていては、たまたま何かの機会に、誰かの都合で、自分の予定どおりに事が運ばなかったり、思い通りの方向に話が進まなかったりしたら、それは「切れる」のも当然であったろうから。

その意味において、やはり大切なのは衣・食・住を始めとする、日常生活であり、そこで普通に、あたりまえに君や僕が人と付き合い、物と関わり合っている――その際の、付き合い方や関わり合い方の如何(いかん)なのではなかろうか。と、このように言い出すと、意外や意外、それが前回、君に伝えておいた、あのハイデガー(Martin Heidegger)の『存在と時間』(Sein und Zeit)の主張していた点でもあれば、より広く、それが現象学(Phänomenologie)という名で呼ばれている、この学問の内容であり、方法でもあった訳である。事実、このようにして君や僕は最初から、いつも、すでに、あらかじめ世界の中に投げ込まれ、世間の内に放り出されているのであって、このような形で世の中にあること(In-der-Welt-Sein)以外、君や僕が人間として存在することは不可能であろう。

その意味において、と繰り返すけれども、君や僕は人間である以上、いつも世界(=空間+時間)と世間の中で、言ってみれば、このようにして人間的に、また、空間的にも、時間的にも、世間的にも、切っても切れない「間」(音読→カン・ケン、訓読→あいだ・ま)に即して、みずからの生活や人生を営まざるをえない。しかも、その際の営(いとな)みは暇(いとま=遑)のない状態で、さながら糸と糸とを上手く、上手に織り上げる作業でもあったし、おまけに、その折の縦糸と横糸とは君や僕が、その経緯を事前に、あらかじめ知っていたり、決めたりすることの出来ない、あくまで受動的な出来事でもあったから厄介である。でも、そうであるからこそ、そこには君や僕の偶発事(happening)を、むしろ幸福(happiness)へと置き換える、解釈の余地が残されているのであるけれども。

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