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現象学について ――「教養」の来た道(358) 天野雅郎

現象学について、何か書こうか知らん(と言うよりも、そろそろ何か、書かなくてはならないのではないか知らん、君のためにも、僕のためにも)と思っているのであるが、どうも現象学は苦手(にがて)である。が、この苦手は「自分と気が合わず、好ましくない相手。転じて、自分にとって得意でないもの。不得手〔ふえて〕」という意味なのか、それとも『日本国語大辞典』(2006年、小学館)の挙げている、この語の本来の、そもそもの意味なのか、よく分からないけれども、ともあれ苦手とは、もともと「常人と異なり、不思議な力を持つ手」のことを指し示す語であった。したがって、君や僕が「その手で押えると人は腹痛が治まり、ヘビは動けずに捕らえられる〔、〕などという」形で、この苦手という語は使われ、今に至っている訳である。多分、江戸時代の用語であったろう。

と、それを念じて、先刻来、しきりに頭部に手を当てているのであるが、どうやら当て方が悪いのか、当て所が悪いのか、うまく筆が先に進まず、困っていたら、たまたま『広辞苑』(2008年、岩波書店)を引くと、そこには何と「爪が〔、〕にがく、手に毒のあるという手」という語釈が載っていて、ビックリ(😲)。でも、このような手で触(さわ)られたり、撫(な)でられたりしたら、そこには一触即発、差し障(さわ)りの生じうる危険性も......ないでは、なかろうが、これを「触らぬ神に祟(たた)りなし」と打遣(うちや→うっちゃ)り、放り出すことの叶う人間は古来、稀(まれ)であったに違いなく、いきおい人間は怖々(おずおず→おじおじ→おどおど)と、この不可触(アンタッチャブル)な何かに、手を差し伸べ、これを撫物(なでもの)に変えるのが常態でもあった。

このようなことを想像しながら、目下、僕の頭の中には映画の、あの『2001年:宇宙の旅』(2001: A Space Odyssey)の「人類の夜明け」(The Dawn of Man)の名場面が去来しているのであるが、それを「モノリス」出現のシーンであると理解してくれている君は、当然、この映画を観たことのある側であろうし、そうでない君は、観たことのない側であろう。どちらでも構わないけれども――どちらであっても、この映画自体の難解さには変わりがないし、今、この場で僕は、この「一枚岩」(monolith→monolithus→monolithos)を触った瞬間から、人類は人類となり、やがて「武器」という「道具」を発明(発見?)し、これを用いて動物を殺し、文字どおりにライヴァル(rival→rivalis→同じ水を使う者)の猿人を殺し、そこから自分探しの旅を始めることになる点だけを伝えておこう。

ところで、このようにして人類は、いつも自分たちの存在や、その根拠を自分たち以外の、何かや誰かや、何処(どこ)かや何時(いつ)かや......要するに、それを自分たちが直接、目で見たり、音を聞いたり匂いを嗅いだり、口で味わったり手で触ったり、できない「もの」(=物+者+鬼)を通じて、説明してきた訳であり、そのような説明のための原理を、ある時は実体とか実在とか、ある時は本体とか本質とか、このように呼び慣わしてきたのであった。そして、これらが詰まる所、現象という語の対語でもあれば、前者には永遠で不滅の、不変の性格が付随し、後者には束の間の、ひたすら消滅を繰り返さざるをえない、無常の姿や形が宛がわれ、この双方が何らかの仕方で繋がり合ったり、関わり合ったり、組み合わさったりしつつ、この世界は成り立っている、と考えてきた次第。

いやはや、けったい(卦体→怪態)な話である。なにしろ、そのまま自分たちの目の前に存在しているものを容認せず、否認して、それが仮に、いくら無常の風に吹かれ、はらはらと舞う桜の花弁(はなびら)のごときものであるからと言って、その花弁の背後に永遠に、いつまでも生き延びる、花の命を想定すること自体が、君や僕には奇妙な、しっくり来ない、落ち着きの悪い感じを与えるものであったから。――と書き継いで、ふと気になったので、質問である。ひょっとすると君は、むしろ僕とは違い、このような考え方に違和感を催さず、それどころか、共感や同感の念を抱いている側なのかも知れないね。それならば、あたりまえに君は目の前に桜の花弁が散っている光景を見ても、それは毎年、去年も来年も、変わることなく繰り返される、いつも同じ、一つの風景であったろう。

要するに、このような感受性と言おうか、思考法と言おうか、君や僕が現象という語を使って、例えば現象学について、あれこれ頭を捻る折に、いつも付き纏(まと)うのは、このような人間の資質や気質や、それどころか、そこには性質や体質をも含む、いわゆる質(音読→シツ、訓読→たち)の問題なのではなかろうか。しかも、そのような質が単に君や僕の個人の問題に還元され、限定されるものではない以上、それは社会の問題でもあれば、文化の問題でもあり、まさしく人間の問題でもあるし、また、そのような人間を人間たらしめ、その名の通りに、人と人との間を結び付けたり、切り離したりする、言語の問題でもあった。とは言っても、その際の言語が君や僕の場合には、さしあたり、すでに日本語という姿や形で、現象していることから、君や僕は逃れようがないのであるが。

その意味において、そもそも現象という語が中国から、昔々に日本へと伝わり、これが呉音で「ゲンゾウ」と読まれ、ほとんど(まったく?)現像と同じ使い方をされていたにも拘らず、やがて明治時代になって、この語が偶々(たまたま)西周(にし・あまね)によって英語の phenomenon の訳語に採用され、さらに、それが日本最初の哲学辞典である『哲學字彙』を通じて普及したのが、少なくとも、日本語における現象という語の歴史であった。ところが、そこに厄介(ヤッカイ)なことに、横(?)からドイツ語の Phänomen や、おまけに Erscheinung の訳語として、もう一つ、別の現象が付け加わり、なおかつ、そこに現象学(Phänomenologie)という語まで上乗せをされ、それが20世紀の以前と以後とでは、かなり違う現象学を指し示しているのであるから、いよいよ話は面倒である。

が、よく考えてみたら、このような厄介や面倒は、この現象という語が最初から、この語の誕生と同時に抱え込んでいた、ある種の複雑で怪奇な性格でもあって、前回も述べておいたごとく、そもそも現象という語は字面の通りに受け取れば、そこに巨大な、象(ゾウ)の姿が彷彿(ほうふつ=髣髴)している訳であり、その象が人間の周囲に、ごく普通に生存し、ノッシノッシと歩き回っていた場所、例えばインドやアフリカであれば、いざ知らず、そのような姿を誰も、ほとんど見たことのない場所、例えば中国や日本では、この象という語は現実と虚構との狭間に、その恐怖だけを伴い、君や僕の耳元で、あの「ゾッ」とか「ゲッ」とか、あるいは「ギャー」とか「ギョッ」とか、このような音を立てている、はなはだ摩訶(マカ)不思議な語であったろう、と評さざるをえないのである。

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