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『日本文学小史』を読む ――「教養」の来た道(363) 天野雅郎

前回は幾分、頭の中に虫が湧(わ)きそうな話となってしまい、恐縮である。このような時には虫下(むしくだ)しでも飲んで、体から虫気(むしけ)を除くに越したことはないのであるが、そのような薬の一つが昔も今も、きちんと虫の居所(いどころ)を突き止め、その正体を暴(あば)くことにあった点は変わりがない。と言う訳で、さっそく僕は三島由紀夫(みしま・ゆきお)の『日本文学小史』のページを、まさしく繙(ひもと=紐解)くことにしたのであるけれども、実は僕自身は、これまで君にも伝えてきた通り、ちょうど三島由紀夫との間に一世代(すなわち、30年)の年齢差があって、これを近いと見るのか、遠いと嘆くのか......いずれにしても、それは君や僕が親と子の間に介在させざるをえない、ある種の世代感覚のズレであったり、微妙な調和であったりする訳である。

であるから、という言い方が相応しいのか、相応しくないのかは別にして、これまで僕は結果的に、三島由紀夫の『日本文学小史』を読んだことがなく、三島由紀夫とは僕にとって、あくまで小説家(novelist)であり、劇作家(dramatist)であったに過ぎず、せいぜい彼の『文章読本』(1959年、中央公論社)や、あるいは『作家論』(1970年、中央公論社)をパラパラと、めくったりするのが関の山であった。そこで――思い立ったが吉日(Procrastination is the thief of time!)とばかりに、この一文を彼の全集以外で、てっとりばやく入手することは可能なのか知らん、と思って調べてみると、何と現在、いちばん新しい、この作家の文庫本で、この『日本文学小史』を収めた『古典文学読本』が平成二十八年(2016年)に中公文庫から刊行されており、いたって僕は感無量である。

と書き継いだのは、この一文を今回、読んでみて、あらためて僕は三島由紀夫という作家の幅の広さや、その懐(ふところ)の深さに、しみじみ感じ入ったのであって、ひょっとすると彼は、その資質において小説家や劇作家である以前に、むしろ批評家(critic)であったのではなかろうか、という感慨すらもが、ふと僕の中に兆(きざ)したほどなのである。ああ、それなのに、それなのに......と、ここから先は言わずもがな、であるけれども、この『日本文学小史』は上記の文庫本の他に、かつて昭和五十七年(1982年)に新潮文庫から、こちらは『小説家の休暇』という題の、彼の評論集として出版されていて、こちらの方は、我が家(=天野図書館)の本棚の片隅にウトウトと眠り続けていたから、その解説(田中美代子)の冒頭を以下、君にも紹介しておくことにしよう。ご一読を。

 

三島由紀夫の批評は、ともすれば〔、〕その華やかな作家活動の蔭(かげ)にかくれ、第二義的なジャンルのように〔、〕みなされがちであるが、折にふれて発表された評論やエッセイは夥(おびただ)しい数にのぼり、思索の結晶体ともいうべき〔、〕それらの文章は、さながら散乱した無数の宝石のように、まばゆく燦然(さんぜん)としている。〔改行〕複雑な自然の配列のように一句一句は完結し、汲(く)みつくしえないほど稔(みの)り豊かであり、しかも言葉は〔、〕たがいに衝突し、イメージは交錯して〔、〕たえず奇蹟(きせき)を惹(ひ)き起こし、創造の不思議は諸々方々で無造作に語られている。彼は最終的には〔、〕より包括的に世界の全体像をとらえる小説のジャンルに本領を発揮したが、それに先立って〔、〕まず卓抜な批評家であった。

 

さて、いかがであろう。前置きは、この程度で充分である。問題は、この『日本文学小史』において、三島由紀夫が前回、君に紹介しておいた、あの『百人一首』(15)でも有名な、光孝(こうこう)天皇の『古今和歌集』(巻第一、21)の歌について、どのような取り扱い方をしているのか、という点である。ちなみに、この『日本文学小史』は当初、昭和四十四年(1969年)の8月から翌年の6月に掛けて、雑誌(『群像』)に連載されたものであるけれども、そこには第一章の「方法論」から始まり、第二章の「古事記」と第三章の「万葉集」と第四章の「懐風藻」が掲載されてから、さらに第五章の「古今和歌集」と第六章の「源氏物語」が続くが、言うまでもなく、この後には「昭和四十五年十一月二十五日」が差し挟まることになり、そのまま自動的に、未完のまま放置されることになる。

したがって、この『日本文学小史』も三島由紀夫という作家にとっては、これまた遺作(posthumous work=死後作品)の一つに当たっている訳であるが、これが最初に講談社から刊行されるのは昭和四十七年(1972年)のことであり、ここには大学生になって、やがて僕の私淑することになる、磯田光一(いそだ・こういち)の解説も添えられている。ただし、残念ながら僕個人が、その磯田光一の評論に関心を示すのは、もう少し後のことであり、その意味において、この時期は三島由紀夫という点でも、また磯田光一という点でも、ごく普通の、ありふれた高校生の感受性しか、僕は備えていなかったことになるであろう。そのことも悔やみつつ、先刻、僕は急いで磯田光一の『邪悪なる精神』(1973年、冬樹社)を本棚から引っ張り出し、その『日本文学小史』の解説を読み終えた所である。

この二人の関係については、今は措く。磯田光一の解説自体は、いつもながら周到で、とても律義であるから、ぜひ君も図書館(天野図書館?)の『磯田光一著作集』(1990年、小沢書店)の第一巻(「三島由紀夫全論稿」)あたりで、目を通して欲しい限りである。と言ったのは、驚くべきことに現在、彼の評論集で更(さら=新)の状態で買えるものは、おそらく皆無であって、このような事態を振り返るだけでも、僕は君が大学生をしている時代の寒々とした、批評精神の不在の風景に不安を催さざるをえない。そして、それは多分、あの光孝天皇の歌(君がため/春の野に出でて/若菜摘む/わが衣手に/雪は降りつつ)を想い起こしながら、三島由紀夫が新潟と群馬の県境にある、雪の三国(みくに=御国)峠を歩いていた、昭和四十五年(1970年)の時点とも通じ合っているに違いない。

と、このようなことを考えながら、僕は『日本文学小史』の第五章(「古今和歌集」)のページを捲(めく)り始めたのであるが――あれあれ、何と三島由紀夫が光孝天皇の歌を想い起こしたのは、確かに「三月」ではあっても、それは「富士山麓(さんろく)」と記されているでは、あ~りませんか。いやはや、ちょっと困ったな(......^^;)と頭を掻(か)きながら、ともかく『日本文学小史』の記述は次の通りである。お目通しを。――「自然の只中にいて春を待つ思いを、今年もまた私は、三月一杯〔、〕富士山麓にいて味わった。今年の春は特に遅く、たびたびの雪や烈風の中で、苦痛に充(み)ちた春の難産に私は立ち会った。それは春という名が〔、〕ついているだけに、一そう耐えがたい峻烈(しゅんれつ)さを帯びた。もし冬だったら、はじから〔、〕それなりの覚悟があったであろう」。

 

そのとき私は「春」という名が古今集の歌人に与えたものの意味を肌から知ったのだった。名が理不尽の感じを呼び起し、春という「名」の秩序が、われわれの心を逆立てるのだった。もし秩序が〔、〕なかったら、何ら抒情の発想も〔、〕もたらさぬものが、秩序の存在によって焦燥(しょうそう)や怒りや苦痛が生み出され、それが詩の源泉になることを自覚するとき、われわれは〔、〕すでに古今集の世界に〔、〕いるのである。

 

なお、この暫く前に登場しているのが「三国峠」であり、このような「文学史」の叙述に際して、そこに「私」という一人称が姿を見せること自体、まず君は驚くべきであろうが、この折に三島由紀夫の取り上げているのが、まさしく『古今和歌集』(巻第一、9)の「春の雪」の歌であった。題詞(ことばがき)には「雪の降りけるを詠める」とあり、作者は紀貫之(き・の・つらゆき)である。僕に言わせれば、この『日本文学小史』において三島由紀夫の挙げている、いくつかの『古今和歌集』の歌の中で、いちばん彼の『豊饒の海』の、とりわけ『春の雪』の主題(テーマ)に合致しているのは、この歌なのではないか知らん。なにしろ、そのように捉えれば、前回、僕が頭の中に虫の湧きそうな話をしたことも、まったく虫下しを飲まず、僕の体から虫気を除くことになるであろうから。

 

私は春の遅い〔、〕この三月、青年たちと共に〔、〕しらしら明けから三国峠を出て、ふりしきる雪の中を三国山系の稜線(りょうせん)づたいに歩いた。林道の左右の樹氷は〔、〕はなはだ美しく、どこまで行っても同じ樹氷の花の中をゆく道は、夢幻の裡(うち)をさまよう感を与えた。道すがら私は小枝を折って、これを眺めながら歩いた。小枝は〔、〕あたかも体温計のように透明な氷の硝子(ガラス)に密封されていた。そして〔、〕その赤い目盛のように、氷の中で節々が赤く芽を張っているのが見られた。しばらく指の中で〔、〕ころがしていたけれども、氷は融(と)けなかった。

 

霞(かすみ)たち 木(こ)の芽も春の 雪降れば 花なき里も 花ぞ散りける

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