ホームメッセージ雅(みやび)について ――「教養」の来た道(365) 天野雅郎

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雅(みやび)について ――「教養」の来た道(365) 天野雅郎

三島由紀夫(みしま・ゆきお)が『古今和歌集』について、まだ若い頃に書いたものがある、と先日、昭和四十五年(1970年)に講談社から出版された『三島由紀夫文学論集』のページを捲(めく)っていて、僕は知ったので、さっそく調べてみると、まず磯田光一(いそだ・こういち)の編集した「新潮日本文学アルバム」(20)の『三島由紀夫』(1983年、新潮社)には、その記載がなく......残念。でも、この評伝は磯田光一らしく、とても行き届いたものであり、例えば子供の時分、三島由紀夫は数多くの詩や歌や、俳句まで物しているが、それらが「春」よりも「秋」のイメージを伴うものであった点に、磯田光一は注意を促している。――「それは生来の孤独な少年が明るい「春」を求めながらも、それ以上に滅びの季節に通じる「秋」に共感する素質を持っていたことを暗示している」。

これは、学習院の初等科から中等科の頃の話である。仔細に言うと、彼が学習院の初等科に入学するのは昭和六年(1931年)であり、これを卒業し、中等科に進学するのは同十二年(1937年)のことになる。そして、この時期から小説も書かれ始め、いわゆる処女作に相当するのは翌年(昭和十三年→1938年)の『酸模』(すかんぽう)であるが、これは学習院の交友会誌に掲載されていて、興味深いことに、ここにも「秋彦の幼き思ひ出」の副題が付いている。また、この後、彼が今風に言えば、高校一年生の時に書き継いでいたのが、あの「花ざかりの森」であって、これが処女短編集という形で刊行されるのは、彼が昭和十七年(1942年)に学習院の高等科に進学し、さらに、これを首席(!)で卒業し、今度は東京帝国大学の法学部に入学した年(昭和十九年→1944年)の出来事であった。

三島由紀夫という筆名も、この「花ざかりの森」から用いられている。ただし、このペンネームが元来、伊藤左千夫(いとう・さちお)の名にヒントを得て、使われ出したものであった点は面白い。と言ったのは、君や僕が後年、かなり硬派(⇔軟派)な、いわゆるマッチョ(macho→masculus→masculine)なイメージを、この「三島由紀夫」という作家に対して抱き勝ちであるのとは裏腹に、むしろ彼自身は繊細な、ある種、ひ弱と評しても構わないほどの、典型的な文学青年であった訳であり、このような硬軟(コウナン)入り交じった、入り乱れた状態から、この「三島由紀夫」という作家が姿を見せているのは印象的であったから。ちなみに、伊藤左千夫の『野菊の墓』は明治三十九年(1906年)に発表されていて、いずれ機会があれば、立ち返ることになる予定であるから、ご記憶を。

ついでに、同じ「いとう」は「いとう」でも、こちらは伊東の方の詩人、伊東静雄(いとう・しずお)に関しても、僕は君に聴いて貰(もら)いたい話がある。ただし、それを喋り始めると、また話が脱線してしまうに決まっているから止めておく。最低限、この段階で伝えておきたいことは、この詩人が三島由紀夫の、もっとも愛好した詩人であったこと、および、この詩人を始めとして、昭和十年(1935年)に創刊された雑誌に集う、その名の通りの「日本浪曼(ろうまん)派」の面々(→保田與重郎、亀井勝一郎、太宰治、檀一雄etc.)が、その好悪も含めて、とても大きな影響を三島由紀夫という作家に与えたこと、さらに、この「日本浪曼派」が姿を変えて、装いを新たにした雑誌(『文藝文化』)に三島由紀夫の「花ざかりの森」は掲載されたこと、さしあたり、この程度であろうか。

話を戻す。もともと今回、僕が君に話を仕出したのは、たまたま先日、僕が『三島由紀夫文学論集』を読んでいて、そこで次のような冒頭の一文と出会い、そこから君に、ふたたび『古今和歌集』について、ひいては『新古今和歌集』について、いささか付け加えておきたい点が生じたからに他ならない。ちなみに、この『三島由紀夫文学論集』は上記の通り、昭和四十五年に出版されていて、僕が今、膝の上に置いているのも、その単行本であるけれども、繰り返すまでもなく、それは例の「昭和四十五年十一月二十五日」に先立つこと 240日余り前の発行である。が、残念ながら、その後、この本は品切れとなってしまい、やっと平成十八年(2006年)になって講談社文芸文庫から三分冊で出直したのであるが、これも現在、入手困難な模様であるから、君には古本を探して貰うしかない次第。

 

私が〔、〕この前「古今集」について書いたのは、戦争中のことであつて、それから二十何年間、つひぞ「古今集」や「新古今集」について書いたことがなく、又その機会もなかつたといふのは、ふしぎな感じがする。〔中略〕このごろ私は、二十何年前の〔、〕あの当時、「古今集」や「新古今集」は、私にとつて何であつたか、と考へてみることがある。それは、何よりもコントラストの魅力だつた。行動の時代の只中にゐて文学に携はらうとする少年が、「言葉」とは何か、といふことを考へるときには、まず言葉の明証として立ち現はれたのである。「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」......さうだ。それこそは福音だつた。天地を動かしたいとは思ふが、行動の適性を与へられていなかつた少年にとつては。

 

そして、そこから「二十何年」かの時が経ち、この「古今集と新古今集」という一文を三島由紀夫が物したのは、ちょうど昭和四十二年(1967年)の、これまた42歳の折のことである。ちょうど――と言ったのは、この年の年頭(1月)に『豊饒の海』の第一巻である『春の雪』が完結し、翌月(2月)から第二巻の『奔馬』の連載が始まるのと、ちょうど同じ時に、この「古今集と新古今集」は書かれていたからである。なお、この一文は『三島由紀夫文学論集』の編者の、虫明亜呂無(むしあけ・あろむ)の「あとがき」によると、どうやら「一般に未公開の作品」であって、三島由紀夫が彼に送った、個人宛ての書簡に同封されていたもののようである。でも、このようなこと自体が、ほとんど手紙を書かなくなってしまった、君や僕のような日本人には驚きであり、僕は羨ましい限りである。

先日来、そのような羨ましさも手伝って、僕は三島由紀夫の少年期のことや、あるいは青年期のことを、あれこれ振り返ってみたのであるが、せいぜい手許にあって、いちばん詳しい情報を僕に与えてくれたのは、松本徹(まつもと・とおる)の編集した『年表作家読本・三島由紀夫』(1990年、河出書房新社)であったから、現時点で僕が知りえたのは、ほんの僅かな情報に過ぎない。が、それでも当時、彼が学習院の中等科を卒業し、高等科へと進学する直前の昭和十七年、この年の初めに「王朝心理文学小史」なる一文を彼は書き、これが翌年、学習院の図書館の懸賞論文に入賞していたことが分かったのは、けっこう僕にとっては収穫であった。なにしろ、この一文の表題自体、やがて三島由紀夫に『日本文学小史』の筆を執らせるに至る、その原石のような観を呈しているのであるから。

と書き継いで、やおら「王朝心理文学小史」のページを捲ろうかな、と僕は思い立ったのであるが、何と、この一文は困ったことに、目下、新潮社版の『決定版・三島由紀夫全集』にしか収められていないらしく、その点、我が家のような個人営業(?)の貧乏図書館には、このような「決定版」まで贅沢に取り揃えることは叶わないのが実情であり、やれやれ、と溜息を吐(つ)きながら、僕は頓挫をしてしまった所である。まあ、このようにして幾つになっても、どれほど時間や経験を積み重ねても、いつも勉強(=勉+強)と呼ばれるものには切りが無くて、奥が深くて、何かと大変(......^^;)なのです。と言う訳で、今回は以下、三島由紀夫の「古今集と新古今集」の中から、いたって魅力的な個所を抜き出し、君の一覧に供することで、お仕舞いにせざるをえないけれども、ご容赦を。

 

私は〔、〕この二十年間、文学から〔、〕いろんなものを一つ一つそぎ〔そぎ→傍点〕落して、今は、言葉だけしか信じられない境界へ来たやうな心地がしてゐる。〔中略〕「鬼神をも〔、〕あはれと思はせる」詩的感動は、古今集においては、言語による秩序形成のヴァイタルな力として働くであらうが、それは同時に、詩的秩序を〔、〕あらゆる有効性から切り離す作用である。古今集の古典主義と、公理を定立しようとする主知的性格はすべて〔、〕そこにかかつてゐる。〔中略〕今、私は、自分の帰つてゆくところは古今集しかないやうな気がしてゐる。その「みやび」の裡に、文学固有の〔、〕もつとも無力なものを要素とした力があり、私が言葉を信じるとは、ふたたび古今集を信じることであり、「力をも入れずして天地を動かし」、以て詩的な神風の到来を信じることなのであらう。

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