ホームメッセージ運命について ――「教養」の来た道(367) 天野雅郎

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運命について ――「教養」の来た道(367) 天野雅郎

前回、長谷川泉(はせがわ・いずみ)の『三島由紀夫の知的運命』(1994年、至文堂)を本棚から引っ張り出し、君に紹介したのには理由がある。とは言っても、この......大正七年(1918年)に生まれて、平成十六年(2004年)に亡くなった、日本の近代文学と現代文学の研究者のことを、まず君が知っている可能性は低いであろうから、その辺の話を本当は、君に聴いて貰(もら)う必要があるけれども、それでは話が脇道に逸(そ)れ過ぎるから止めておく。でも、僕が大学生であった頃、例えば森鷗外(もり・おうがい)や川端康成(かわばた・やすなり)に興味があって、日本の近代文学や現代文学の勉強を始めようと思ったら、さしあたり手に取らざるをえないのは長谷川泉の、森鷗外論や川端康成論であった訳であり、それらの本は今でも、我が家(=天野図書館)の本棚に並んでいる。

と書き継いで、さっそく長谷川泉の本を、例えば『森鷗外論稿』(1962年、明治書院)だとか『川端康成論稿』(1965年、同上)だとか、あれこれ探し出し始めるのが、言ってみれば僕の、日常茶飯の行動であって、このような行動を自分自身が、なぜ、このような形で取り続けているのか、実の所、僕にも事情が分かり兼ねるのであるが、まあ、僕の心と言おうか、体と言おうか、よく判別の付かない何かが、このような行動を僕に取らせるのであるから、致し方がない。が、このような行動には結構、心の力や体の力が伴われざるをえず、何度も書斎――と呼ぶよりも、むしろ工房とでも称する方が、はるかに相応しいのであるけれども、そこから書庫へと足を運び、下手をすると何度も、行ったり来たりを繰り返すことになってしまい、これは寄る年波には勝てない行動であり、困った話である。

事実、その度に体のアチラコチラや、場合によっては、心のアチラコチラが痛みを感じたり、傷ついたりすることも稀(まれ)ではなく、もっと便利な、あまり体を動かさず、おそらく心も動かさずに済むであろう、当世流行(とうせい・はやり)の電子機器(エレクトロニクス)あたりに乗り換えてみようか知らん、と考えないことも、ない訳ではなく......と言い出すと、これが何と、真っ赤な嘘で、そのような気を起こしたことが生涯、一度もないのであるから恐れ入る。と、自分で自分に呆れ返っても仕方がないのであるが、ともあれ、僕は生来、電子機器との相性が至って悪く、今だに携帯電話も携帯せず、例えば君の大好きな(?)スマホなどには手を触れたこともなく、せいぜい使っているのはパソコンの、ワープロ機能のみであり、あと、お世話になっているのは電子辞書くらい。

ただし、よく考えてみたら、いちおう僕はパソコンを使って、しょっちゅう本探しをしていたり、けっこうオークションで掘り出し物の、珍本や稀本の収集に励んだりしている訳であるから、ひょっとすると僕自身も、それ相応の「電子機器依存症」なのかも知れないな、と反省すること頻(しき)りである。その限りにおいて、本当に便利な時代になったものだ、と驚嘆する一方で、やはり僕自身はパソコンの、影も形もなかった時代に本を読み、筆を執っていた文人や、とりわけ文士と呼ばれた作家たち、詩人たちへの思い入れが強く、つい先刻も、長谷川泉の『近代日本文学の位相〈全〉』(1994年、おうふう)のページを捲ったり、逆に我が家に『長谷川泉著作選』(全12巻、明治書院)が不揃いであることに溜息(ためいき)を吐(つ)いたり、いろいろ年寄り臭いことを繰り返している。

ところで、その、長谷川泉の『三島由紀夫の知的運命』に関して、僕が前回、君に紹介したのには理由がある、という話である。この本は、そもそも昭和四十八年(1973年)に『彩絵硝子の美学』という表題で、同じ至文堂から出版されたものであったが、それを平成二年(1994年)になって、もともと副題に添えられていた「三島由紀夫の知的運命」が表題となり、刊行され直したものである。彩絵硝子は「だみえ・がらす」と読む。ちなみに、これは三島由紀夫(みしま・ゆきお)が昭和十五年(1940年)に、いまだ作家以前の平岡公威として、学習院の中等科であった頃、15歳(!)の折に執筆したものであり、例の交友会誌(『輔仁会雑誌』)に掲載されている。君も興味があったら、ごく簡単に彼の、新潮文庫版の短編小説集の一冊(『鍵のかかる部屋』)に収められているから、ご一読を。

さて、このようにして『三島由紀夫の知的運命』は、いわゆる改訂増補版に当たっていて、その際、新たに付け加えられたのが、前回、君に報告を済ませておいた、三島由紀夫の「王朝心理文学小史」に関する紹介と解説の一文であり、これを長谷川泉は「中学生・三島由紀夫の「王朝心理文学小史」――発見された未発表論文」と、そのまま「王朝心理文学小史」について、と題された記事に纏(まと)めている。記事と言ったのは、これらが共に、前者は『図書新聞』に、後者が学習院の、まさしく『輔仁会雑誌』に、それぞれ発表されていたからに他ならないが、このタイトルからも窺える通り、この年、昭和五十四年(1979年)になってから、はじめて「王朝心理文学小史」は「学習院大学図書館で発見され、大阪の阪神百貨店の「三島由紀夫展」で展示され、話題を呼んだ」由(よし)。

このようにして振り返ると――この頃、もはや僕の三島由紀夫に対する関心は、ほとんど失せつつあったことも、逆に歴然としてくるが、それは多分、すでに僕自身が大学院に進学して、それ以前に比べれば、あまり小説を読まなくなったこと、それと並んで、僕の小説の興味が三島由紀夫よりも若い、とは言っても、それは年齢の問題ではなく、単に作家としてのデビューの時期に過ぎないが、例えば福永武彦(ふくなが・たけひこ)や遠藤周作(えんどう・しゅうさく)や、あるいは辻邦生(つじ・くにお)や北杜夫(きた・もりお)といった作家たちに移行していたこと、このような理由が挙げられる。ともあれ、このようにして徐々に、僕は三島由紀夫から遠ざかっていったのであるけれども、それは結果的に、僕個人の趣味や嗜好の話ではなく、むしろ時代の趣味や嗜好の話であった。

 

文壇処女作ともいうべき「花ざかりの森」を発表後の三島由紀夫の、昭和十七年一月三十日に脱稿した四百字詰七十枚の「王朝心理文学小史」が、学習院大学図書館で発見され、大阪の阪神百貨店の「三島由紀夫展」で展示され、話題を呼んだ。学習院中等科五年生(十七歳)時代の執筆であるとはいえ、未発表の〔、〕まとまった論文が、長い間眠っていたのは、戦争中の図書館懸賞入選論文という特殊事情によるものである。〔改行〕私は『三島由紀夫事典』(明治書院)を編んだ時、特に初期の作品については探査を心がけたが、この論文は管見に入らなかった。諸年譜類も、この作品を逸している。『学習院輔仁会雑誌』に載るか、あるいは雑誌に入選論文の発表記事でもあれば、そのようなことはなかったと思うが、雑誌には〔、〕その痕跡がなかったのである。〔改行〕この発掘論文は、表題から察せられるように、王朝文学を〔、〕その前・後を併せて心理小説の視点で貫徹し論じている。

 

このような書き出しで、この後、長谷川泉は逐一、丁寧に「王朝心理文学小史」の構成と、その内容を説明してくれているので、とても有り難い。お蔭様で、この一文を先日、読もうとして、いまだ目を通していない(......^^;)僕も、この論文が序(+序説)から始まり、その後には前篇(心理文学の黎明)と本篇(心理文学の豊饒)と後篇(心理文学の末裔)が続き、最後に跋で締め括られていることが分かり、大助かりである。おまけに、この一文の目論見が本来、何と「遍歴小説をライト・モチーフにして古今東西の旅の文学史を構成する狙いであった」ことも分かり、いよいよ僕は興味を掻き立てられたが、それと同時に、このような論文を17歳の折に書いていたこと自体、僕は三島由紀夫に脱帽せざるをえない。――やっぱり、栴檀(せんだん)は双葉より芳(かんば)し、なんだな。

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