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写真の時代 ――「教養」の来た道(370) 天野雅郎

アルバムという語は、当然、英語の album の翻訳語、と言うよりも、そのカタカナ表記に過ぎないけれども、このようにして「写真や切手などを〔、〕はっておくための帳面」を日本人は、いつの頃から身近なものとするようになったのか知らん。このような疑問を解決するために、まず恒例の『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を引くと、この語釈に続いて――「また、その写真を〔、〕はってあるもの。絵葉書などを〔、〕はることもある。写真帳。アルバム帳」という補足が加えられ、この語の典拠には明治三十一年(1898年)に刊行された『風俗画報』(178号)の用例が挙げられている。これを踏まえれば、どうやら19世紀の末年あたりになって、この語を日本人の多くは初めて目にし、耳にしたのではなかろうか、という推測が成り立つ。厳密に言えば、今から121年前に当たっている。

ちなみに、この『風俗画報』という雑誌は明治二十二年(1889年)に東陽堂から出版された、日本で最初のグラフィック(graphic→graphein→画く)雑誌であり、文字どおりの「画報」であったが、何と、その最終号(478号)が出たのは大正五年(1916年)であるから、この雑誌は言ってみれば、大日本帝国憲法の発布の前日(2月10日)に産声(うぶごえ=初声)を上げ、そこから夏目漱石(なつめ・そうせき)の逝去の年に至るまでの、実に足掛け28年もの間、刊行され続けていたことが分かる。以前、この雑誌のことは何かの折......このブログにおいて、僕は君に話をしておいた記憶があるが、今は探すのが面倒なので話を省く。要するに、この頃になって、ようやく日本人は視覚的(ヴィジュアル)に、みずからの「風俗」に「写真」を通じて、最初の邂逅を果たすことになった次第。

もちろん、このような雑誌(マガジン)は日本人が、みずから考案したものではなく、あくまでヨーロッパやアメリカからの、いわゆる舶来品であり、模造品に過ぎないけれども、そもそも日本語では、まず「写真」とは「神仏や貴人などを描いた絵」を指し示していた訳である。そして、それが「江戸時代後期に、西洋の画法が蘭学者〔例えば、平賀源内や司馬江漢〕によって紹介されてからは、ありのままに描く〔、〕という技法〔、〕すなわち「写生」の意味でも、また〔、〕その技法で描かれた絵」を意味するようにもなり、これが仕舞いに、とうとう「江戸時代末期に〔、〕ありのままの姿が機械によって写された画像が舶来し、英語 photograph の訳語として、「写真」が〔、〕これに転用された」のが順序である。――と、このように述べているのは『日本国語大辞典』の「写真」の語誌。

さて、このようにして振り返ると、もともと「写真」も「雑誌」も、あるいは、この双方を組み合わせた「画報」も、いたって西洋的な、はなはだ近代的な文明の利器であったことになるし、逆に言えば、そのような文明の利器を介することで、はじめて君や僕の目に触れたり、耳に飛び込んできたりするのが、何よりも西洋であり、近代であったことになるであろう。この点は、ひょっとすると君のように、自分の身の回りに西洋が溢れ、近代が溢れ......と言い出すと、それらが激流のごとく、奔流のごとく押し寄せ、溢れ返った果てに生きている君には、逆に事情が、さっぱり分からないのかも知れないね。でも、それは僕のように、いまだ幼少期には「写真」も「雑誌」も、ひいては「画報」も特別な、どこか余所(よそ)行きの感を伴っていた世代には、ごく当たり前のことなのである。

ところで、このような話題を今回、僕が君に持ち出しているのは他でもない。それは前回、僕は君に学習研究社の「現代日本文学アルバム」や、さらに新潮社の「日本文学アルバム」のことを喋っていて――ふと、これらのシリーズが何時、出版され始めたのかを確認することを怠っていたからである。そこで先日、あらためて調べ直してみると、より古いのは新潮社の「日本文学アルバム」の方であり、これは予想どおりであったが、それが刊行されたのが昭和二十九年(1954年)であることを知り、かなり古いことに気づいて、まずビックリ。おまけに、それは『島崎藤村』(第1巻)からスタートし、それ以降は『北原白秋』(第2巻)『樋口一葉』(第3巻)『堀辰雄』(第4巻)『森鷗外』(第5巻)『芥川龍之介』(第6巻)『夏目漱石』(第7巻)と続いており、その混乱ぶりに、またビックリ。

なお、この10年後、今度は昭和三十九年(1964年)に筑摩書房から「近代作家研究アルバム」というシリーズや、あるいは、明治書院から「古典アルバム」というシリーズが、その5年後(昭和四十四年→1969年)には出版されているけれども、残念ながら、どちらも我が家(=天野図書館)には揃っていないので、実情が分からない。唯一、実情が分かるのは、先刻も触れておいた、学習研究社の「現代日本文学アルバム」であり、これは昭和四十八年(1973年)以降の刊行となる。ちなみに、この「現代日本文学アルバム」の特徴は、例えば石坂洋次郎(いしざか・ようじろう)や井上靖(いのうえ・やすし)のように、まだ当時、存命中の作家や、それから近年、亡くなったばかりの山本周五郎(やまもと・しゅうごろう)や川端康成(かわばた・やすなり)を取り上げている点であろう。

言うまでもなく、その内の一人が三島由紀夫(みしま・ゆきお)であったが、このようにして没後になって、この作家の生涯を辿り直すために編まれた、文字どおりのアルバム(album→albus→白板)に目を通していると、いかにも彼が「写真」や「雑誌」や、この双方を組み合わせた「画報」の時代に相応しく、似つかわしい、それどころか、その最初の作家であったのではなかろうか、という印象(確信?)すら生まれてくる。と言ったのは、彼以前にも例えば、石川啄木(いしかわ・たくぼく)や芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)や、中原中也(なかはら・ちゅうや)や太宰治(だざい・おさむ)のような、いわゆる「写真うつり」が好く(本当かな?......^^;)今風に言えば、それこそ「インスタ映え」のする歌人や詩人や小説家は、いるにはいるが、それは、あくまで例外である。

と、このように書き添えていて、やおら気が付いたのであるけれども、このような「インスタ映え」のする作家たちは揃いも揃って、いずれも短命であり、順に満年齢で並べれば、石川啄木が26歳、芥川龍之介が35歳、中原中也が30歳、太宰治が38歳で、それぞれ短い人生を閉じている。それに比べれば――という言い方をするのは、いかにも不謹慎きわまりないが、少なくとも三島由紀夫は彼らより、ずっと長命であり、このことは平成二年(1990年)になって新潮社から出版され、現在は新潮文庫で購入することの叶う、その名の通りの『グラフィカ(文庫版→写真集)三島由紀夫』を手に取っていて、あらためて感じ入ってしまった、僕の茫漠たる思いなのである。が、このような「インスタ映え」に精を出せば、いきおい人は我を忘れて、疲れ果ててしまうに......決まっているよね。

 

「往年の文士は、停滞しては復活し〔、〕又〔、〕停滞をと〔、〕くり返したものだが、われわれ戦後の文士は、「出ずっぱり」でいなければ〔、〕すぐ忘れられてしまう」というのが三島さんのグチで、谷崎〔潤一郎〕や〔泉〕鏡花のような生き方は〔、〕われわれに許されていない、それが現代の文壇ジャーナリズムだ、と言った。三島由紀夫の二十五年の華々しい文筆活動は「出ずっぱり」そのもののようでいて、作家としての盛名となると、やはり照りも曇りもあった。(藤田三男「文庫版あとがき」)

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