ホームメッセージ足首について ――「教養」の来た道(4) 天野雅郎

メッセージ
メッセージ

足首について ――「教養」の来た道(4) 天野雅郎

いやはや、何とも怪しい表題である。が、この表題によって僕は、例えば谷崎潤一郎のような「足首フェチ」(それどころか「足裏フェチ」)のことを話題にしたいのでもなければ、そもそも人間の体には「足首」の他に、いったい幾つの「首」と名の付く場所があるのでしょう、3つでしょうか? 4つでしょうか? 5つでしょうか?......といった謎々(なぞなぞ=何ぞ何ぞ)を出して、君を困らせたいのでもない。もっとも、この謎々自体には相当に、ワクワクする点がない訳ではなく、それらの場所が共通に首(くび)と呼ばれ、いわゆる括(くび)れた形状や、その特徴を共有しているにも拘らず、それぞれの部位への意味付けや価値付けは異なっており、そのことを考えるだけでも、僕は楽しく、ついつい余計な字数を費やしてしまいそうなほどである。

ただし、あらかじめ君は今回の表題に、どうして「足首」という語が使われているのかを、弁(わきま)えてくれているのであろうから、さっさと話を先に進めるのが、僕の務めであろう。そして、そのような君は多分、僕の出しておいた前回の宿題を忘れることなく、それ相応の努力をした上で、済ませ、この場に臨んでくれているに違いない。それと言うのも、どうやら肝腎の本(岩波文庫『唐宋伝奇集』)の方は、上巻も下巻も共に、どちらも品切れの状態になっているらしく、この本を君が手に取り、読んでくれているとすれば、おそらく君は図書館に出向いたか、古本屋に出向いたか、いずれにしても君の足――まさしく、君の「足首」や「足裏」を使って、君自身の勉強の第一歩を、踏み出してくれているに違いないのであるから。

ところで、そもそも君は「赤い糸」と呼ばれる、例の不可思議な糸が、君の体の、どの部分から出て、君の将来の結婚相手の体の、どの部分と繋がっているのか、知っていたのであろうか。おそらく、このような話を君は、味も素気(そっけ)もなく、にべもしゃしゃりもなく、無視をするような無愛想ではないはずであるから、あえて僕も君に問い掛けているのであるが、きっと君は「赤い糸」によって結び付けられているのが、君と彼女の(あるいは、君と彼の)お互いの手の、しかも左手の小指である、と思い込んでいたのではなかろうか。それとも、ひょっとして君はコブクロ(それとも、新垣結衣)の『赤い糸』を聴き過ぎて、それが二人の「心」を強く、しっかり結び付けるものであるかのような、思い違いをしていたのではなかろうか。

何を隠そう、この不可思議な糸――本当は、この糸という字の本来の字体(絲)を使うと、この字体に籠められている、二つの糸の縒(よ)り合された感じや、その雰囲気が、俄(にわか)に浮かび上がってくるのであるが、それは私たちの「心」という、実にアヤフヤな何かを結び付けているのでもなければ、それを結び付けるのが、例えば君と彼女の(あるいは、君と彼の)お互いの指であるのでもなく、また、それが結び付けられているのが私たちの手の、しかも左手の小指であるのでもなく、それが実は「足首」に他ならないことを、まず私たちは知っておく必要がある。しかも、それが中国の原作(「定婚店」)では、はなはだリアルに、そうそう簡単には切れたり、解(ほど)けたりしない、赤い縄(「赤縄」)として語られている点も含めて。

ちなみに、これまで君が誰かの結婚式や、披露宴に参加をしたことがあれば、その際に偶々(たまたま)、この「赤縄」(せきじょう)を見たり、場合によっては仲人(なこうど)や主賓の語る、退屈極まりないスピーチの中に、この「赤縄」を使った言い回し(「赤縄の契りを結ぶ」)を聞き、何のことやら、さっぱり訳が分からなかったりした、そのような経験をしたことがあったのではなかろうか。実際、この「赤縄」という語は古くから、私たちの国にも持ち込まれ、使い続けられてきた語であったらしく、ここでも『日本国語大辞典』(2006年、小学館)を繙くと、そこには上田秋成の『雨月物語』(1776年)の用例(「吉備津の釜」)が挙げられているから、少なくとも江戸時代の読本(よみほん)の世界では、この語が流通済みであったことが窺われうる。

それでは、そのような「赤縄」は何時、誰の手によって、その名の通りの「赤い縄」から「赤い糸」へと姿を変え、それが私たちの足首を結び付けるものから、私たちの左手の小指を結び付けるものへと、変貌を遂げたのであろうか。この点については、確たる証拠を挙げることができる訳ではないが、僕の知る限りでは、例えば太宰治の『思ひ出』の中に、次のような興味深い一節がある。なお、この一節は昭和八年(1933年)が初出であるので、いわゆる旧漢字と旧仮名遣いで書かれている。残念ながら、旧漢字は新漢字に改めざるをえなかったものの、仮名遣いについては作者に敬意を表して、歴史的仮名遣いのままにしておこう。困ったことに、そのことを僕のパソコンは理解できず、やたら文字修正の「赤い線」を引いてしまうのであるが。

秋のはじめの或る月のない夜に、私たちは港の桟橋へ出て、海峡を渡つてくるいい風にはたはたと吹かれながら赤い糸について話し合つた。それはいつか学校の国語の教師が授業中に生徒へ語つて聞かせたことであつて、私たちの右足の小指に眼に見えぬ赤い糸がむすばれてゐて、それがするすると長く伸びて一方の端がきつと或る女の子のおなじ足指にむすびつけられてゐるのである、ふたりがどんなに離れてゐてもその糸は切れない、どんなに近づいても、たとひ往来で逢つても、その糸はこんぐらかることがない。さうして私たちはその女の子を嫁にもらふことにきまつてゐるのである。私はこの話をはじめて聞いたときには、かなり興奮して、うちへ帰つてからもすぐ弟に物語つてやつたほどであつた。私たちはその夜も、波の音や、かもめの声に耳傾けつつ、その話をした。

さてさて、驚くべきことに太宰治は、このようにして「赤い糸」で結び付けられているのが、私たちの「右足の小指」である、と書いているではないか。この一節を最初に読んだ時――それは、もう数十年前のことになるが、僕も『思ひ出』の主人公(「私」)のように「かなり興奮して」、そのことを誰かに喋りたくなってしまい、仕様の無かったことを憶えている。はたして、君は僕の同類であろうか、それとも、このような「赤い糸」の話など馬鹿馬鹿しくて、ちゃんちゃら可笑しい、という類(たぐい)のガリガリ頭であろうか。どちらでも構わないけれど、僕自身は至って単純に、この世界の、すべての「もの」は、物(もの)であっても、者(もの)であっても、ことごとく「眼に見えぬ赤い糸」によって結び付けられている、と考えている。

そのこと自体、至極(しごく)簡単なことである、と僕自身は思っているが、君は例えば、昨日のこと(過去)や明日のこと(未来)が目に見える、とでも言うのであろうか。君の目に見えるのは、今日のこと(現在)だけである。しかし、その現在(いま・ここ)を、君が理解し、行動するためには、君が過去を想起したり、未来を予想したりすることのできる、その限りにおいてのことではなかろうか。そうでなければ、たちまち君は今日の出来事の、一つ一つに初対面となり、悩み、困り......二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなるのが必定である。そして、そのような時に君は、はじめて君の今日を、君の昨日が支えてくれていることに気付き、そのことに感謝もすれば、太宰治の『思ひ出』にも、ふと手を伸ばしたくなるはずである。 

教養の森に関するお問い合わせはこちらまで 和歌山大学学生センター 学務課

| 所在地:〒640-8510 和歌山県和歌山市栄谷930 | 電話番号:073-457-7130 |

Copyright ©2012 - 2017 Wakayama University