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締切(しめきり)について ――「教養」の来た道(42) 天野雅郎

締め切り、という語は嫌な語である。――と、常日頃から思っている僕は、今回、その「いやらしさ」の根源を改めて突き止める気になったので、いつもの『日本国語大辞典』(2006年、小学館)で「しめきり」の語を引くことから、この稿を始めよう。すると、この語が何と……と言ったのは、単に僕の浅はかな思い込みが外れたまでのことであるが、そもそも「出入口、戸、窓などを閉じたままにすること。また、しめきられた場所」を指し示す語であり、この『日本国語大辞典』の第一の語釈の通りに、この語は元来、言ってみれば建築用語であり、そして、その用例に挙げられているのも、実は若い日には建築家(!)志望であった、夏目漱石の『草枕』(1906年)の一節(「戦争が始まりましてから、頓(とん)と参るものは御座いません。丸で締め切り同様で御座います」)である。

よく考えてみれば、この語の動詞形は「しめきる」であるから、これまた『日本国語大辞典』の語釈の通りに、それは「入口、戸、窓などをぴったりと閉ざす。また、永い間閉ざしたままにする」ことが原義であった点は、疑いがない。事実、この語の初出は江戸時代の初頭、ちょうど徳川家康が江戸幕府を開いた年(1603年)に編纂された、日本語・ポルトガル語辞典(『日葡辞書』)にまで遡りうるようである。それに比べれば、この用例に引き続いて『日本国語大辞典』の挙げている、二葉亭四迷の『浮雲』(1887年)も、やがて「ヘボン式ローマ字」で有名になる、ヘボン(James Curtis Hepburn)の著した和英辞典――日本で最初の和英辞典(『改正増補・和英語林集成』)の第三版(1886年)も、いずれもが新しい、おおよそ280年以上も後の用例であることには、変わりがない。

けれども、ここで興味深いのは、はじめて後者(『改正増補・和英語林集成』)において、文字通りに建築的な……言い換えれば、私たちの空間(space)の閉塞に関わる表現としてではなく、時間(time)の閉塞に関わる表現として、この「しめきる」という語が用いられるようになった点であり、そのまま『日本国語大辞典』の語釈を借り受ければ、それは「原稿などを募集したり事務を取り扱ったりする時に、あらかじめ時間、日数、また数などを限って、それまでで打ちきって終わりとする」こと――要するに、現在の私たちが当たり前に、この語を使う際の用法が、姿を見せていることであり、この点に限って言えば、例えば森鷗外の『ヰタ・セクスアリス』(1909年)の用例(「一冊は日記で、寝る前に日々の記事をきちんと締め切るのである……」)も、ほとんど大同小異である。

すなわち、このような仕方で私たちが、時間的に何かに「結末をつける」ことや、その「まとめをする」ことが、そのまま「しめきる」という語を宛がわれ、言い表されるようになったのは、どうやら19世紀の末年から20世紀の初年に掛けてのことのようであり、大袈裟(おおげさ)に言えば、この時点に至って私たち(「日本人」)は、はじめて空間的な閉塞感から時間的な閉塞感への、移行の段階を経験した、と言うことになるのではあるまいか。その点において、たまたま(?)『日本国語大辞典』が「しめきり」の用例として、このように「あらかじめ決められた時、日の終了の期限」という形で、引き合いに出しているのが、石川啄木(いしかわ・たくぼく)の『札幌』(1908年)であったのは、彼の『時代閉塞の現状』(1910年)と結び付けると、いささか奇妙な暗合ではある。

ともかく、このような時間的な閉塞感が姿を見せることで、それまで一般的であった、空間的な閉塞感は力を失い、私たちの多くには、ほとんど「閉塞感」として意識されることも、自覚されることもなくなり、せいぜい、いわゆる恐怖症(Phobia)の一つに数え上げられ、例えば閉所恐怖症(Claustrophobia)と呼ばれ、特殊な目で見られるのが通例となっている。とは言っても、このような「周囲を閉じられたところ」の持つ恐怖感や、むしろ、その不安感が、ある種の「牢(ろう)」のイメージを伴い、私たちに原初的な、根源的な閉塞感を与え続けるのは、昔も今も変わりがなく、その点では、このような用例として『日本国語大辞典』の挙げている、河竹黙阿彌の歌舞伎狂言(『吉様参由縁音信』)も、その上演の年(1869年)ほど、私たちに縁遠いものでは、ないのかも知れない。

実の所、昨今の私たちの周囲には、このような空間的な閉塞感が、時間的な閉塞感を凌(しの)いで、逆に、あらためて息を吹き返すに至っているかのような気配(と言おうか、雰囲気)が、濃厚なのではなかろうか? まあ、そのような現象の一例として、僕が初音ミク(ちゃん?)の歌う『閉塞空間』なる曲を、つい先刻、我が家のパソコンで、娘と一緒に視聴したからと言って、まったく君には何の説得力も伴わないであろうし、そうであるからと言って、僕も「これがミクちゃんですか……」と呟(つぶや)けるほどの、奥床しい人間性を備えている訳でもなく、せめて君には、もともと「しめきり」が「牢」のイメージで捉えられ、それが字面の通りに、そもそも「牛」を閉じ込めるはずの場所から、やがて人を閉じ込める場所へと、次第に変化を遂げた語であることは伝えておこう。

そして、それが突き詰める所、人の外面から内面へと、変化を遂げるに至ったのが、君や僕の生きている、この「近代」(ひいては、現代)という時代の特徴であり、それは多分、このような時代区分(古代・中世・近代)の成立根拠に照らし合わせるならば、ほぼ1000年紀(ミレニアム)の、歴史の推移を前提とし、必要としているのであって、君や僕が急に、何かを思い立ち、動き出したからと言って、そうそう簡単には、その全体像が変化を来(きた)し、変貌を遂げるような代物(しろもの)では、ないのである。でも、そうであるからと言って、君や僕が1000年……現時点で数えれば、おおよそ400年先か500年先にまで、生き延びることは、とうてい不可能であるし、それでは余りにも退屈に過ぎるであろうし、せいぜい君や僕は今の、この夏の一日を、やり過ごすのが先決である。

その意味において、僕は今回も君に、ぜひとも鑑賞をして欲しい映画を、とりわけ「夏休み」の終わりに相応しい映画を、紹介しておこう。と言った辺りで、僕は冒頭に立ち戻り、まさしく「しめきり」という語の持つ閉塞感を、空間的にも時間的にも、外面的にも内面的にも、あらゆる面において描き出し、逆に、そのような噎(む)せ返るほどの――ムンムンとした、ムラムラとした暑さの中で、独り意を決し、田舎から都会へと旅立つことになる、青年の姿を君に示したい。それは、ちょうど僕が20歳の頃に、深夜の映画館で何度も、その画面を見続けた、黒木和雄(監督)の『祭りの準備』(1975年)である。そう言えば、この映画の舞台は今年、私たちの国で観測史上、最高気温(41.0℃)を記録した、高知県の四万十川市の辺りであった。当時は、いまだ中村市で、あったけれども。

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